出口王仁三郎の生涯

このブログは、出口王仁三郎と霊界物語の総合サイト『王仁三郎ドット・ジェイピー』(略称オニド)で配布している『聖師伝~出口王仁三郎の生涯』を転載したものです。 飯塚弘明・責任編集 http://onido.onisavulo.jp/

『聖師伝~出口王仁三郎の生涯』

 編纂:大本教学院
 翻刻編纂:飯塚弘明

アマゾンキンドル版(電子書籍)もあります。
聖師伝 ~出口王仁三郎の生涯


   【目次】

  はしがき
1 御誕生
2 穴太の里
3 祖父の話
4 祖父の性行
5 祖父の再生
6 幼少年時代
7 小学校時代
8 久兵衛池事件
9 青年時代
10 獣医学の研究
11 父の死
12 青年時代の煩悶
13 高熊山出修の動機
14 高熊山の修行
15 使命の自覚
16 幽斎の修業
17 開祖との会見
18 聖師の大本入り
19 聖師と筆先
20 聖師の苦闘
21 神苑の拡張と造営
22 神島開き
23 大本の発展
24 第一次大本事件
25 霊界物語の口述
26 エスペラントとローマ字の採用
27 世界紅卍字会との提携
28 蒙古入り
29 世界宗教連盟と人類愛善会
30 大正より昭和へ
31 明光社の設立
32 急激な発展
33 第二次大本事件
34 愛善苑の新発足
35 晩年の聖師
36 御昇天
37 御昇天後の大本

【附録】出口聖師年譜


姉妹サイト「出口直(でぐちなお)の生涯」もあります。

【附録】出口聖師年譜
(年齢は数え年)

●明治4年(1871年)
 旧7月12日京都府南桑田郡曽我部村字穴太小字宮垣内の
    農家・上田吉松の長男として生まれる。幼名・喜三郎。
●明治13年(1880年)10歳
 偕行小学校に入学。
●明治16年(1883年)13歳
 小学校の代用教員として教鞭をとる。
●明治18年(1885年)15歳
 奉公を励む。
●明治26年(1893年)23歳
 船井郡園部の獣医・井上氏の書生となる。
●明治27年(1894年)24歳
 岡田惟平翁に就き始めて敷島の道を学ぶ。
●明治29年(1896年)26歳
 郷里穴太に牛乳搾取場精乳館を設置。
●明治30年(1897年)27歳
 父・吉松、帰幽、享年54歳。
●明治31年(1898年)28歳
 旧2月9日より一週間、郷里高熊山にて修行をなす。
 旧8月23日、参綾。初めて大本開祖と会見。翌々日、綾部を去る。
●明治32年(1899年)29歳
 7月3日、開祖の迎えによりて再び参綾。
●明治33年(1900年)30歳
 1月1日、出口澄子と結婚。
 4月2日、金明霊学会を設置。
●明治35年(1902年)32歳
 3月7日、長女直日、誕生。
●明治36年(1903年)33歳
 この秋「筆の雫」「霊の礎」等の執筆を始める。
●明治37年(1904年)34歳
 12月「道の栞」脱稿。
●明治39年(1906年)36歳
 9月、京都の皇典講究所に入学。雑誌「このみち」を創刊。
●明治40年(1907年)37歳
 4月、皇典講究所卒業。
 5月、別格官幣社・建勲神社の主典となり12月辞任。
●明治41年(1908年)38歳
 8月1日、金明霊学会を大日本修斎会と改称。
●明治42年(1909年)39歳
 3月、雑誌「直霊軍」創刊。
●大正3年(1914年)44歳
 8月、「敷嶋新報」創刊。
 9月25日、直霊軍を組織。
●大正5年(1916年)46歳
 3月9日、直霊軍の別働隊なる白虎隊、少年隊を組織。
 4月、大和畝傍山に参拝。
 6月25日、播州高砂沖の神島を開く。
●大正6年(1917年)47歳
 1月、大本機関誌「神霊界」創刊。
 12月、機関紙「綾部新聞」創刊。
●大正7年(1918年)48歳
 4月、大和三山を巡る。
 11月6日(旧10月3日)開祖出口直子刀自昇天。享年83歳。
●大正8年(1919年)49歳
 9月、「綾部新聞」を廃刊し新たに「大本時報」を発刊。
●大正9年(1920年)50歳
 5月、大和龍門嶽に登山。
 9月、大正日日新聞社を経営。
●大正10年(1921年)51歳
 2月12日、大本事件起きる。
 同日、京都監獄未決監に収容され、
 6月17日、責付出獄を許される。この間の獄中生活126日に及ぶ。
 8月、「神霊界」を「神の国」と改題。
 10月5日、京都地方裁判所に於て大本事件の公判判決言い渡しあり。
    不敬罪として懲役5年を言い渡される。直ちに控訴。
 同月、本宮山神殿取毀命令下り、官憲の手により破壊される。
 同月18日(旧9月18日)より松雲閣に於て「霊界物語」の口述開始。
●大正11年(1922年)52歳
 2月4日、大日本修斎会を大本瑞祥会と改称。
●大正12年(1923年)53歳
 7月、国際語エスペラントを採用。
 10月、続いて日本式ローマ字を採用。
 この年、支那道院との提携成る。
●大正13年(1924年)54歳
 2月13日、払暁ひそかに綾部を立ちて数名の同志と共に入蒙の途に就く。
 3月3日、奉天を出発。洮南を経て公爺府(コンエフ)に入る。
 6月21日、白音太拉(パインタラ)に於て捕らえられる。
 7月、官憲に護送されて帰国。
 同27日、責付取消により再び大阪刑務所北区支所に収容される。
 11月1日、保釈許可となり帰綾。
 12月15日、再び「霊界物語」の口述を始める。
●大正14年(1925年)55歳
 1月20日、大本及び大本瑞祥会の規約組織の大改革を行う。
 5月11日、最高点にて綾部町町議に当選。
 同月20日、世界宗教連合会を創立し、北京に於て発会式を挙げる。
 6月9日、人類愛善会を設立。
 7月15日、大審院に於て大本事件は事実審理と決定。
    従来の判決は破棄される。
 10月、「人類愛善新聞」発刊。このほか「瑞祥新聞」「真如の光」
    エス文「大本」(後に国際大本と改題)文芸誌「明光」等
    続々発刊の運びに至る。
●大正15年・昭和元年(1926年)56歳
 2月頃より楽焼の製作を始める。
 5月より歌日記執筆。
 この間、亀岡に於ては神苑の造営大いに進捗。
●昭和2年(1927年)57歳
 5月17日、大赦令により7ヵ年にわたる大本事件解消。
 12月、渡台。
●昭和3年(1928年)58歳
 2月1日、長女直日、高見元男(日出麿)と結婚式を挙げる。
 5月、四国地方巡教。
 7月、東北地方巡教。
 この間、亀岡にては月宮殿をはじめ諸種の建築物の竣成。
●昭和4年(1929年)59歳
 3月、四国巡教。
 4月、伊勢神宮及び香良洲神社参拝。
 同月、甲斐、信濃地方巡教。
 10月、渡支、一ヶ月余。
 11月、「北国夕刊新聞」大本の経営となる。
 この年より全国各地に於て聖師作品展を開催。
●昭和5年(1930年)60歳
 3月、京都にて開催の宗教博覧会に参加し大本館を特設して出品。
 6月4日、開島30周年に際し沓島、冠島参拝。
 9月、山陰及び壱岐対馬巡教。
 同月、人類愛善新聞社及び人類愛善会東洋本部を亀岡より東京に移転。
 12月、再び台湾巡教。
●昭和6年(1931年)61歳
 8月、満60歳の還暦を迎え更生祭を行う。
 歌壇に進出し、80有余の結社に加入。
 数ヶ月に歌集数冊を発刊。
 9月8日、綾部鶴山山上に神声碑建立。
 同月下旬、山形、更に北海道に巡教。
 10月18日、昭和青年会を結成し、雑誌「昭和青年」
    (後に昭和と改題)を発刊。
 12月、四国地方巡教。
 同月、人類愛善会、支那の聖道理善会(在理会)と提携。
 愛善主義による各種精神運動団体との提携の歩は着々として進み、
    既に提携せる主なものは支那の道院、救世新教悟善社、
    ドイツの白色旗団、ブルガリヤの白色連盟等々あり。
●昭和7年(1932年)62歳
 2月、開教40周年祭を挙行。
 同月、「丹州時報」大本の経営となる。
 同月、大阪にて開催の満蒙博覧会に参加して愛善館を特設。
 4月、京都満蒙支那大博覧会にも参加し愛善館を特設。
 6月18日、人類愛善会と喇嘛教との提携成る。
 7月、東京満州国大博覧会に参加出品。
 8月13日、大日本武道宣揚会創立。
 11月1日、昭和坤生会を結成。
 同月、北海道地方巡教。
●昭和8年(1933年)63歳
 旧1月1日付を以て大本を皇道大本と復帰し、
    これまでの大本瑞祥会を解消。
 3月、紀州官幣大社熊野神宮に参拝。
 同月、伊勢神宮ならびに香良洲神社に参拝。
 同月20日、生母・世根子刀自帰幽。
 10月4日、亀岡天恩郷にて霊界物語「天祥地瑞」の口述を開始。
●昭和9年(1934年)64歳
 7月22日、昭和神聖会創立。全国遊説。
●昭和10年(1935年)65歳
 12月8日、第二次大本事件起こる。聖師松江より拘引、
    京都市中立売警察署に収容される。
●昭和11年(1936年)66歳
 3月13日、起訴される。
●昭和15年(1940年)70歳
 2月29日、京都地方裁判所において判決、治安維持法違反及び
    不敬罪として無期懲役を言い渡される。直ちに控訴。
●昭和17年(1942年)72歳
 7月31日、控訴審の判決あり、治安維持法違反は無罪
    不敬罪は原審通り有罪の言い渡し。
 8月7日、夫人澄子、出口伊佐男と共に保釈出獄、
    6年8ヶ月ぶりにて亀岡へ帰る。
●昭和20年(1945年)75歳
 9月8日、大審院の判決下る。治安維持法違反は無罪と確定し、
    相次いで不敬罪も解消。
 10月、第二次事件によって綾部、亀岡の両聖地は当局の手により
    綾部、亀岡両町に売り渡され、法廷で争い続けていたが、
    町との円満な解決によって無条件にて返還される。
 12月8日、事件解決奉告祭を綾部彰徳殿にて執行。
●昭和21年(1946年)76歳
 2月7日、聖師の提唱により「愛善苑」新発足。
 8月7日、突如発病、血圧昂進のため絶対安静。
 12月5日、中矢田農園より、落成した瑞祥館に移り静養。
 12月8日、愛善苑会則改正により聖師は苑主となる。
    愛善苑趣意書を改正し愛善苑主意書発表。
●昭和22年(1947年)77歳
 1月22日、宗教法人令による法人組織の手続き完了。
 8月27日(旧7月12日)喜寿を祝う瑞生祭を亀岡にて執行。
 12月8日、新生記念祭執行。病勢やや悪化。本部事務所竣成。
●昭和23年(1948年)78歳
 1月18日(旧12月8日)容体急変。
 1月19日、午前7時55分昇天。
 1月30日、綾部へ遷柩。
 2月2日、葬儀を愛善苑苑葬として執行。天王平に埋葬される。

37 御昇天後の大本

 聖師の御昇天は全信徒にとって落日の後のようなさびしい感じに打たれました。聖師こそみろくの世実現のために降られた大救世主であると確信していた信徒にとって、聖師の御昇天が如何に大きなショックを与えたかは想像にあまりあるものがあります。

 しかし、すみ子夫人は世の常の婦人のように、ただ夫の死を哀しみ傷んでいるような方ではありませんでした。哀悼のためにともすれば暗くしめっぽくなろうとする空気の中にあって、夫人は万感を胸にこめつつも、常に従容たる態度を持し、「聖師さまの後は私がリッパに御用をさしてもらいます。艮めの御用は私がするのどす」と自信満々たるお言葉をもって、幾度か役員信者を激励勇気づけられました。天恩郷に集まって来た信者たちは、いづれも暗夜に光明を見出したごとく、失望から希望へ落胆から勇気へと起ち上りました。

 すみ子夫人は開祖、聖師の道統を継承されて、愛善苑二代苑主として起たれました。神諭に「大本のお世継は末子の澄子と定まりたぞよ」との神示の実現であります。

 聖師の五十年の神業遂行の御生涯を通して、常に蔭にあって聖師の神業を助けられたのは二代苑主だったのであります。

 聖師が夫人やその家族の人々と水入らずで暮されたというのは、おそらく第二次大本事件の保釈後の中矢田農園の極めて短い年月の間だけではなかったかと思われます。聖師は毎日わずか三四時間の睡眠しかおとりになられず、起きれば周囲には役員信者が集まり、内に外に御活動の絶え間のないお忙しい御生活でした。

 「人間の出来ることなら何でも出来る」と堅い自信をもっておられた聖師は、著述や絵や詩歌のような精神労働はもちろん、耕作、土木、建築、植樹、文撰、活字拾い、印刷等各種の肉体的労働にあたられました。そうかと思うと、カミシモをつけて夫人とともに浄瑠璃が語られたり、盆おどりには櫓に上がって音頭をとられたり、また自ら踊りの輪に入ったりされました。万能の人とは聖師のごとき人を指していったものでありましょう。

 信者ばかりでなく、実に多くの人々が聖師に面接していますが、一度でも聖師に会われた日は無限の親しみと懐しみを感じました。しかも男女老若の分ちなく、貧富智愚の別なく、その人その人に応じてお話になられるのですから、どんな人でも聖師のお傍を離れたくなくなってしまうのでした。また決して気どったり、いわゆる、ぶったりされることなく、大きな小児のような方でありました。

 かつて御巡教の旅に出られた時、新聞記者が訪ねて来て、大本教の信者は全国でどのくらいありますか?と質問したのに対し、随行の或る役員が「数十万ある」と答えると、傍で聞いておられた聖師は「そんなにありませんで」と正直なところをさらけ出してしまいました。そんなにありもしない信者の数を多くみせて、虚勢を張ろうとするようなお気持は全然ないのであります。

 そうかと思うと、第一次大本事件の際、法廷で聖師の精神鑑定が問題になった時など、「私が気狂いぢゃない、世間の者が気狂いや、私が世間の人間の精神鑑定をしてやるのや」と子供のように威張ったりされるような無邪気な方でありました。

 こうした無数の逸話や言行は、いずれ「聖師言行録」にまとめて発表される時期があろうと思います。おそらく今後どれほど多くの歴史家や学者や伝説記者や作家たちが、聖師を題材にして研究したり筆を執ったりするかわからないほど、興味津々たる千変万化の波乱に富んだ御生涯でありました。

 二代苑主の起たれた後の愛善苑は新たな希望と力をもって隆々と発展してゆきました。昭和二十四年十二月八日には、人類愛善会が再発足され、すみ子夫人は総裁として平和運動の陣頭に立って指導されることになり、亀岡町に総本部をおき、機関紙「人類愛善新聞」が復活されて、世界連邦運動と協力して活動を開始することになりました。

 昭和二十五年十二月二十九日、人類愛善会々長出口伊佐男氏は世界連邦日本国会委員会事務局長日高一輝氏とともに、十二月三十日よりジュネーヴに開かれる世界連邦大会に出席するため羽田を出発、途中ローマ市に立寄り法王と会見した後、大会に出席しました。人類愛善会総本部は世界連邦の主旨を全国に普及徹底せしめるため、人類愛善新聞五十六万七千部を発行しました。かつて百万部を突破して全国に雄飛した人類愛善新聞は、十五年ぶりで再発足後いまだ一年足らずの間に、以上のごとき一躍驚異的発展を遂げたことは、全会員の熱誠によるとともに、人類愛善運動が如何に時代の要望に応えているかを物語るものであるといわねばなりません。

 一方宗教法人愛善苑はますます本来の大本の宗教的信念にもとづいてその使命を発揮し、昭和二十五年十二月八日教団の名を「大本愛善苑」と改称し、全国に教線を拡張し、組織を整備して終戦後の宗教界に目ざましい活動を進めてゆきました。

 二代苑主はまず綾部にみろく殿の建設を慫慂され、梅化運動を提唱されました。梅化運動とは、大本愛善苑の教団と、愛善苑発足後昭和二十一年二月創立された「愛善みずほ会」(増産、農村振興運動)前記「人類愛善会」、大本楽天社(昭和二十四年十二月八日創立した芸術運動)、エスペラント普及会(昭和二十五年二月再発足)、大本の社会福祉事業等が、あたかも梅の花の五弁の花のように一体となって積極的活動をしてゆく運動のことであります。梅化は倍加に通じ、梅の花が霜雪をしのいでりんりんと先端をきって運動を全世界にひろめてゆこうという運動であります。

 しかし、聖師の御昇天後再び全信徒の上に大きな悲しむべき事実が起りました。それは昭和二十七年三月三十一日、二代苑主が突如として御昇天になられたことでありました。

 父を失い、つづいて母に別れねばならなかった子供のように、全信徒は再び大きな精神的打撃をうけたことは申すまでもありません。信者の中には、聖師の御昇天以上に二代苑主の御昇天に驚愕した人々もあったでありましょう。中には聖師の御昇天の時に充分覚悟が出来ていて、いよいよわれわれ信徒が独り歩きをすべき時期が来たのだと信じた人々もいたでありましょう。

 二代苑主が表に立たれて活動された期間はまことに短いものでありました。享年七十。御遺骸は綾部天王平の開祖、聖師の中央のやや後方に埋葬されました。

 二代苑主の御生涯が比較的短かかったのは長年の御苦労、ことに第二次大本事件の六年八カ月にわたる長期の獄中生活等のためであったでしょう。晩年の苑主の御業績の中には御老体にもかかわらず、全国的の御巡教をつづけられたこと、原子爆弾の中心地広島市において犠牲者の霊に黙祷され、綾部において万国戦災犠牲者の慰霊祭を執り行われたことなどが挙げられます。

 二代苑主御昇天の翌日、即ち昭和二十七年四月一日は奇しくも、宗教法人法の改正に伴う教団規則の改正によって、従来の「大本愛善苑」の名称が本来の「大本」に復帰し、「苑主」が「教主」と改められて実施される日でありました。この日、出口直日さんが、かねて神定されていた通り三代教主として起たれることになったのであります。

 大本は昭和二十七年の十一月十八日開教六十周年祭を迎え、開祖、聖師、二代教主の基礎時代を経て、いよいよ実践の時代に入ったのであります。綾部に平和の聖堂たるみろく殿も建設されました。大本が立替立直の枢軸として恒久世界平和の実現のために、新しい世界宗教としての本来の使命を果すか否かは、一に今後全信徒が如何に自覚し実践するかにかかっているのであります。
(終)

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