出口王仁三郎の生涯

このブログは、出口王仁三郎と霊界物語の総合サイト『王仁三郎ドット・ジェイピー』(略称オニド)で配布している『聖師伝~出口王仁三郎の生涯』を転載したものです。 飯塚弘明・責任編集 http://onido.onisavulo.jp/

12 青年時代の煩悶

 喜三郎さんは青年時代には誰にもあり勝ちな思想動揺期における煩悶を経験されました。十三歳ぐらいの時に、この世の中は、何とかして救われなければならぬと、おぼろげながら考えられたことがありますが、青年時代になって、真剣にこの問題にとりくまれました。

 富者を見ても、貧者を見ても、当時の喜三郎さんの胸には常に一つの疑問が去来しました。

 一体、土地といい、資本といい、一さいの生産機関なるものは、人類全体を幸福に生活させるために、天から与えられたものではあるまいか。それを地主や資本家なるものが、その利益を自由にろう段しているのであるが、何の理由があり、何の徳があり、何の権利があって、そうしているのであろうか。宗教は慈悲博愛を鼓吹するとも、いまだ現世を救うにいたらず、ただ死後の楽園を想像せしめて、われわれの心中にわずかに慰めを与えるに過ぎない。教育は、多大の知識を与えるけれども、半日の衣食をも産出するものではない。また道徳の最低限度を標準として作られた法律は、よく人の行為を責罰するとも、人類を天国の人たらしめる道具ではない。海陸の軍備は充実するとも、国防の上には役立つが、多数の苦しんでいる人類を幸福に生活せしめる利器ではない。どうしたらこの矛盾せる社会を一掃して天国化することができるであろうか。世界の現状を見れば、人類の苦悩と飢凍とは日一日と迫って来る。これを黙視していいもであろうか。これが真理、正義、人道なのであろうか。──こうした疑問が絶えず喜三郎青年の胸中に去来していたのでありました。

 しかし、この疑問に対して、根本的の解決を与えてくれるものは何もなかったのであります。今日であったら、喜三郎さんは左翼の運動にでも走りかねまじき疑惑にぶつかられたのであります。

 よく世間にはインチキな侠客があって、弱いものイジメをしたり、酒をのんでは暴行をはたらいたり、バクチをしては村の風紀を乱したりすることがあります。喜三郎さんは父吉松氏の死後一ヵ年の間に、そうした無頼漢を向うへまわしてよく喧嘩をされたり、喧嘩の仲裁をされたりしました。

 喜三郎さんの度胸がいいのをみて、或る侠客は自分の家の養子にしようとしたくらいでありました。喧嘩の仲裁がウマく行くと、たちまち評判が高くなって、喧嘩の仲裁は喜三やんに限るという風に村の者におだてられ、しまいにはどこかに喧嘩がないかと探すようになりました。そうなって参りますと、久兵衛池事件以来、弱者に対する同情と強者に対する反抗とが一つになって、いっそのこと弱い者を助け、強い者をくじく侠客──明治の播髄院長兵衛になってやろうかと考えられるようになり、わずか一年足らずの間に前後九回も大きな衝突をされ、無頼漢から恨みを買われたのであります。

11 父の死

 聖師の前半生において、もっとも悲しむべき一つの事件は、二十七歳のとき、父吉松氏が死去されたことであります。

 吉松氏は初めブラブラ病気になり、いろいろ手をつくしてみましたけれどもどうも思わしくありませんでしたので、この上は信仰の力で父の病気を治したいというところから、喜三郎さんは看護のかたわら付近の教会に通われました。

 喜三郎さんは昼のうちは精乳館の仕事に忙殺されていました上に、弟の由松さんがにわかに家出をされたために、薪一把山へ取りに行く者さえなくなりましたので、ある日、吉松氏は、

「屋敷内の椋の木を薪にしたいから伐ってくれ」

と喜三郎さんに頼まれました。

 ところが、この椋の木は丁度屋敷の艮の方[※東北]、すなわち鬼門にあたっていたのですが、喜三郎さんは長い梯子をかけて椋の木の心を伐りはなされました。その心が傍にある柿の木と樫の木に支えられて落ちつかなかったものですから、喜三郎さんはその引っかかっている椋の木の心へ飛びついて、自分の体重を利用してうまくその心を地上へ落しました。

 その時、隣りの小島長太郎という人の土蔵の瓦が二・三十枚、伐りおとした椋の木の枝のためにこわれましたので早速弁償されましたが、この人が意地わるく、いろいろな苦情を持ちこんで吉松氏を苦しめました。

 それから、由松さんが十日ばかりで帰宅しましたけれども、例のバクチにふけって、吉松氏や喜三郎兄さんの説諭も馬の耳に風で、少しも聞き入れないばかりか、乱暴まで働くので、吉松氏は非常に心配されました。そんなところから、病勢がにわかにつのって参りまして、喜三郎さんの六ヵ月にわたる手篤い看護も甲斐なく、七月二十一日五十四歳で亡くなられてしまいました。

 喜三郎さんはこの時ほど力をおとされたことはありませんでした。喜三郎さんが牛を飼いながら、いかに亡き父を恋い慕われたかは、「狭霧」と題する詩の一節を読めば、よくうかがわれるのであります。

 父よ恋しと墓山見れば
  山は狭霧につつまれて
 墓標の松も雲がくれ
  晴るるひまなき袖の雨
   ○
 西は半国東は愛宕
  南妙見北帝釈の
 山の屏風を引きまわし
  中の穴太野で牛を飼ふ

 吉松氏の死は鬼門の木を伐った祟りだとか、裏鬼門の池が祟ったのだとか、親戚や朋友などの連中が口々に申しますので、喜三郎さんはその問題を解決するために宮川の妙霊教会や亀岡のヒモロギ教会などへ行って質問をしましたが、一こう要領を得ず、この上は直接神教をうけるより外はないと決心せられて、毎晩十二時から三時まで産土神社に行って神教を乞われた結果、鬼門の金神と裏鬼門の金神の由来から、その神聖な理由を明かにされました。

 喜三郎さんは大いに勇気づけられ、すすんで各教の教義をさぐり、誤った宗教界を改善しようと考えられましたが、いろいろな教会に出入している中に、教会の迷信ぶり、堕落ぶりに愛想をつかし、それからは神だとか、宗教だとか、信仰だとかということは見るもイヤ、聞くもイヤというようになり、一時は無神論者にさえなられました。

10 獣医学の研究

 明治二十六年七月、二十三歳の時であります。喜三郎さんは園部の従兄で獣医をしている井上直吉氏のところで、獣医学を研究されることになりましたが、研究というのは名ばかりで、牧畜場の世話をさせられたのであります。

 当時近所の南陽寺[※曹洞宗の禅寺]に国学の大家岡田惟平(おかだこれひら)翁が来ましたので、昼の労働につかれた身体を奮いおこして、夜間岡田翁に就いて国学の研究に熱中されました。また南陽寺で毎月開かれる歌会に出席されたり、俳句に趣味をもたれたのも、この頃のことであります。

 喜三郎さんは学校教育としては小学校の三年までしか行かれませんでしたが、学問はいろいろな方面にわたって造詣があり、ことに国学にいたっては追随をゆるさぬものがありました。園部で書生をされていた頃は、ふところから本を離さなかったということであります。

 喜三郎さんは獣医学の研究に従事されましたが、明治二十八年二月、二十五歳のとき、園部を辞して穴太に帰られました。

 獣医の試験に合格されたので、精乳館という牛乳搾取場を穴太に設立されることになりました。喜三郎さんは牛を飼うことから搾乳、配達、経営など、ほとんど一手でやられたのですから、実に多忙をきわめた生活でありました。

 二十七歳まで聖師の前半生は、実に貧乏と労働と研究の連続だったのであります。

 こうした労働生活の中にあった喜三郎青年を、いつも慰めたものは文芸でありました。また二十一・二歳の頃、ホゴ紙の裏に絵をかいて楽しまれたり、また師匠について浄瑠璃や舞曲を習われたこともありました。

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