出口王仁三郎の生涯

このブログは、出口王仁三郎と霊界物語の総合サイト『王仁三郎ドット・ジェイピー』(略称オニド)で配布している『聖師伝~出口王仁三郎の生涯』を転載したものです。 飯塚弘明・責任編集 http://onido.onisavulo.jp/

9 青年時代

 喜三郎さんは山で薪を刈り、それを京都市まで荷車ではこび、わずかの賃金を得て、家の生計を助けられました。穴太の田舎から六、七里もある京都へ出られるのですから、その苦労は思いやられます。喜三郎さんは真夜中の道を車を引いて帰られました。雨や雪の降る日は、ことさらに苦しい思いをされました。

 何故にわれかくのごとく不遇なる
    家に生れしかとかこちてもみし

 これは聖師が当時を想起して詠まれた歌であります。

 喜三郎さんは近所の夜学にかよって漢籍や経文を習われたり、また「日本書紀」「日本外史」のような国学を勉強されたりしました。

 十八歳の春から喜三郎さんは村で発行された「あほら誌」という雑誌に、狂歌、狂句、都々逸、戯文などを作って投書し、それが発表されるのを唯一の慰安とされました。冠句の宗匠について冠句を学び、天才的ひらめきを示して人々を驚かしたというのも、この頃のことであります。

 喜三郎さんは少年の頃から敬神の念があつく、二十二・三歳のとき、毎夜産土神社に参詣して迷信家だとわらわれましたので、ひと眼をしのんで毎夜参詣されました。ある夜、喜三郎さんは「われを世に立たせ給え」と祈願をこらし、神前にたたずんでおられますと、駒のひづめの音が聞えて来て、闇の中に白馬にまたがった異様の神人が近づいて来るのが拝されました。

 明治の新時代になったとはいえ、封建時代の因習の深く根ざしている田舎では、小作人の生活は今日からみれば比較にならない程のみじめなものでありました。そうした小作のせがれとして生まれ、貧苦の中に生長した喜三郎さんが青年時代に青年特有の覇気をもたれたであろうことは、むしろ当然であったでありましょう。喜三郎さんが幼少年の時代から青年時代になっても、常にあこがれの的となっていたのは、むかし明智光秀の居城であった亀山の城趾でありました。

 いとけなき頃は雲間に天守閣
    白壁映えしをなつかしみけり
 旧城趾落ちたる瓦の片あつめ
    城のかたちを造りて遊びぬ
(歌集「故山の夢」より)

 旧城趾にそびえ立つ銀杏樹の下にたたずまれて喜三郎さんは幾度か心を動かされたことでありましょう。亀岡古世町の伯母の家を訪れた時は、喜三郎さんはよく帰りに城趾に立ち寄られました。城趾が年々に荒廃してゆくのを見て喜三郎さんは涙を流されたこともありました。栄枯盛衰は世の習いとはいえ、英雄の心事を想って深き思いに沈まれたこともありました。

8 久兵衛池事件

 喜三郎さんは小学校の代用教員を一年ばかり勤めていましたが、仏教の僧侶出の教員と、神道のことについて衝突したのが原因で辞職されました。明治十八年、十五歳の秋から隣家の斎藤源治という豪農の家に奉公をされましたが、翌年一つの事件が起りました。

 上田家の屋敷の裏鬼門にあたるところに、俗称久兵衛池(きゅうべえいけ)という池がありました。この池は祟り池といわれたくらいで、上田家の人がこれまで七人もこの池で溺死しました。喜三郎さんも七歳のとき誤って落ちこまれ、危いところを祖母の宇能子さんに助けられたことがあり、弟の幸吉さんも溺死しようとしたので、吉松さんは思いきって池を埋めてしまおうと決心しました。そのために上田家と村人との間に大問題が起ったのであります。

 この池は灌漑用の池なので、村人は埋めることに反対したのですが、吉松さんは、

 「自分の所有地にある池を、自分が埋めようがどうしようが勝手である」

というので、村人との間に争いとなりました。地主や村会議員など村内の有力者たちは、斎藤家にあつまって吉松さんをイヂめる相談をしました。

 「吉松が池を埋めるというならば、こちらにも彼を困らせる手段がいくらでもある。
 元来、吉松という奴は愚直な上に文盲で、貧乏の子沢山で年寄りまでいるのだから、地主同盟の上、彼の小作の田地を皆とり上げてしまえば、明日から食うに困って、乞食でもするより外はないだろう。
 上田の所有地を実測してみると、二十坪ばかり余計になるから、あの池は村の物だといって、取り上げようではないか。
 よもやあの貧乏人が、裁判所へ訴えるようなことはようせぬだろう。
 その上、吉松は貧乏なので、村中調べたら方々に金や米の借りがあるだろうから、少しでも貸しのある者は皆こぞって催促して、一泡吹かすのも面白かろう」

 喜三郎さんは村人の相談を、別の間で無念をこらえて聞いておられました。

 喜三郎さんは村人たちが酔っぱらって引きあげるのを待って、主人の斎藤源治氏に暇を乞い、家へ帰ろうとされますと、主人が喜三郎さんを自分の部屋へ通して、

 「お前はさっきから村の人の話を聞いたであろう。それがためお前はいま非常に激昂しているようだが、心をしずめて私のいうことを聞いてくれ。
 村の人はあんな風に申し合っているから、万一お前のお父さんがガンばって抵抗するようなことでは、この先きどんなことになるかも知れぬ。
 そうなっては私もみる目がつらいから、家へ帰って両親に得心するように、懇々と話してやってくれ」

ということでありました。

 喜三郎少年は一言も発せず、一心に瞑目されながら神さまにむかって、

 「何とぞ今回のことについては、理非曲直を明かにさせて父母の苦衷をお救い下さい」

と祈りおわって決心の色を面にあらわし、

 「こういう悪人どもの跋扈する村内には住みたくないから、よし一家そろって乞食になり餓死しても、かまって下さらないで下さい。私たち親子はあくまでも正義のために死ぬ覚悟であります」

といい放って、断然暇をとって家へ帰られました。家へ帰ってみると、両親は非常に心配しておられましたが、

 「御心配なさいますな、今に神様のお助けを仰いで、正邪を明かにして御安心させますから」

と、やさしく父母をなぐさめ、ただちに亀岡の伯母の家へ行って、一部始終を話されますと、伯父伯母も非常に怒って、

 「よし、そういう次第ならあくまでも正々堂々と戦え、万一の場合には自分らが引きうけてやる」

といってくれましたので、百万の援軍を得たように喜びいさんで帰宅されました。

 翌日金剛寺という寺の広間で村の総寄合が開かれましたので、喜三郎さんは父の代理として出席し、堂々と戦いましたところ、村人も正義には適し難く「それでは年々報酬を出すことにして借りるわけにはゆくまいか」と弱音を吐き出しました。結局、村から毎年玄米一斗五升出して借りることとして契約書をとりかわし、久兵衛池事件は落着を告げました。

7 小学校時代

 喜三郎さんが小学校在学中に一つの事件が起りました。

 ある時、吉田有年という先生から修身書を教っておられました。修身書の中に大岡越前守忠相という字句が出て来たところ、先生は「タダアイ」と読んだので、喜三郎さんは立って「タダスケです」と注意をされました。

 先生はききませんでしたので、喜三郎さんはどこまでも「タダスケ」を主張されました。先生は大へんに怒って「貴様は生徒の分際として教師に反抗するとは不都合な奴だ」といって喜三郎さんの手首をぬけんばかりに引っぱって行こうとするので、思わず校長先生の名を呼ばわりました。隣室に教鞭をとっていた校長先生は驚いて走って来ました。

 逐一事情を話されますと、校長先生は本を見ながら大勢生徒のいる面前で「ここは生徒の読んだタダスケが本当だ、君もモ少ししらべておき給え」といいました。

 喜三郎少年の小さな胸はおさまりましたが、吉田先生はそれ以来、喜三郎さんを非常に憎みました。一字でも一句でも、読み誤りがあろうものなら、なぐったり、あさ縄の太いので後手にしばり上げたり、大きな珠算の上に、一時間あまりも坐らすというような乱暴をしました。

 そればかりでなく、乞食が通れば「喜三郎さまのお父さんが通る、お母さんが通る」と指さし、倒れかかった雪隠があると「喜三郎さまのリッパなお宅だ」と嘲るので、他の生徒までが面白がって手をうって笑うのでありました。

 喜三郎さんは子供ながらも怒りの極点に達し、ある日吉田先生の学校から帰る途中を待ちうけ、青杉垣の中から竹の先きにクソをつけたまま先生の腰の辺を突きさし、自宅へ逃げ帰られました。

 これが学校の問題となって、吉田先生は免職となり、喜三郎さんも退校を命ぜられました。しかし数日後に喜三郎さんは吉田先生の代用教員として採用され、下級の生徒に教鞭をとられることになりました。

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