出口王仁三郎の生涯

このブログは、出口王仁三郎と霊界物語の総合サイト『王仁三郎ドット・ジェイピー』(略称オニド)で配布している『聖師伝~出口王仁三郎の生涯』を転載したものです。 飯塚弘明・責任編集 http://onido.onisavulo.jp/

3 祖父の話

 喜三郎さんの祖父吉松さんは、聖師の誕生後六ヵ月目、明治四年十二月二十七日に亡くなられました。その臨終の時、喜三郎さんの御両親を枕辺に招いて次のように遺言されました。

「上田家は古来七代目にかならず偉人があらわれて天下に名を成したものである。
 彼の有名な画伯円山応挙(まるやまおうきょ)(本名は上田主水)は、自分より五代前の祖先上田治郎左衛門が篠山藩士の女をめとって妻となし、その間に生まれたものである。
 今後の孫は丁度七代目にあたるから、かならず天下に名をあらわすものになるであろう。
 いづぞやも亀山(現在の亀岡)の易者に孫の人相を見てもらったら、この子はあまり学問をさせると、親の屋敷におらぬようになる。いずれにしても、ちがった児であるから、十分気をつけて育てよとのことであった。
 ワシの命はもう終りである。しかしながら、ワシは死んでも霊魂は生きて、孫の生い先きを守ってやる。
 この児は成長して名をあらわしても、あまりわが家の力にはならぬとの易者の占いであるけれども、天下に美い名をあげてくれれば、祖先の第一名誉であり、また天下のためであるから、大事に養育せよ。これが私の死後までの希望である」

2 穴太の里

 喜三郎さんの生まれた穴太(あなお)は西国二十一番の観音の札所、菩提山穴太寺のあるところですが、穴太の名の起ったについては、次のように言い伝えられております。

 むかし、豊受大神様は現在大本の神苑になっている綾部の本宮山(ほんぐうやま)に奉斎されてあったのでありますが、その後、丹波国丹波郡丹波村比沼の真奈井ヶ岳の麓、今の中郡五箇村字久次の御神境に遷座されました。

 そして雄略天皇[※21代天皇]の二十三年伊勢へ御遷宮になります時、上田家の邸内が御旅所になりましたので、上田家の一族はよろこび勇んで鄭重に齋かれました。

 その時御神前へお供えされた荒稲の種子が、ケヤキの木の腐れ穴へおちこぼれ、それから苗が出たのを、日夜に育てましたところ、ずんずん伸びてその稲に美しい瑞穂を結びましたから、時の里庄が正しく神の大御心と仰ぎまつって方々の良田にまきつけ、千本という名をつけて植えひろめたところから穴穂の里といったのであります。

 それが後に穴生となり、穴尾となり、さらに今の穴太となったのでありまして、穴太寺の院主は代々穴穂姓を名のっております。

1 御誕生

 山陰道のノド首、亀岡町を西南に去ること約一里、丹波国曽我部村大字穴太の農家上田吉松氏の家に、明治四年(一八七一年)旧七月十二日男の子が生まれ、喜三郎(きさぶろう)と名づけられました。この喜三郎さんが後の出口王仁三郎聖師であります。

 吉松氏はもと丹波国船井郡川辺村字船岡の人で、佐野梅吉といい、上田家に養子に来て聖師の祖父吉松を襲名されました。御生母は世根子といいました。

 喜三郎さんの生まれた明治四年といえば、明治新政府樹立後まだ間もない時で、日本は古い時代を送って新しい時代の生みのなやみを経験している時代でありました。

 当時一番困っていたことは封建の余弊たる藩主の跋扈でした。そこで版籍奉還の実を徹底し郡県制を確立し海外列強に対立するために「内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万国ト対峙セント欲セバ宜シク名実相副ヒ政令一ニ帰セシム」べき趣旨の下に廃藩置県が断行されたのであります。

 ここに封建制は名実ともに廃止され、政令一途に出づることとなり、全国は三府七十二県に区画されて中央集権の実はあがり、明治維新はほぼ完成するに至りました。

 教育制度に就ては、文部省を設け全国の学事を統轄せしめました。大教の御趣旨に就て諸藩に御沙汰書が降り、新貨幣令を発し金本位制を採用したのも明治四年であります。

 その外、明治四年には社会上の問題として御誓文にいわゆる旧来の陋習を破ることがいろいろな形をとってあらわれました。たとえば、四月には、平民の乗馬を許し、五月には祠官の世襲叙爵を停止し、八月には散髪脱刀を許し、華族平民の相婚家するをゆるし、十二月には華士族の在官以外のものには農工商の職を許しました。

 また岩倉具視の一行は欧米視察のため出発しました。

 こうして挙げてみると、明治四年は容易ならぬ年でありました。

 上田家は藤原の出で、八代前の先祖は藤原政右衛門といい、この時に百姓となって藤原姓を上田姓と改められました。百姓になって、万一あやまって藤蔓でも切ろうものなら、一家が断絶するといいう巫女のいうことを信じて姓を改められたということであります。

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