出口王仁三郎の生涯

このブログは、出口王仁三郎と霊界物語の総合サイト『王仁三郎ドット・ジェイピー』(略称オニド)で配布している『聖師伝~出口王仁三郎の生涯』を転載したものです。 飯塚弘明・責任編集 http://onido.onisavulo.jp/

36 御昇天

 越えて昭和二十三年一月十八日朝、突然御容態が悪化し、駆けつけた四人の医師たちによって余ほどの御重態であることが発表されました。

 本部は、折から静岡方面に巡教中の委員長出口伊佐男氏宛に打電し、出口家の人々全員は枕頭にあつまり、ひたすら看護につくされました。全国の各連絡事務所、会合所へは聖師の急変が報ぜられ、本部では奉仕者、亀岡、綾部在住信者一同によって御平癒祈願が行われました。

 しかし、ついに昭和二十三年一月十九日午前七時五十五分聖師は夫人のお手に抱かれて静かに御昇天になられました。享年七十八をもって、ここに波乱重畳の御生涯を終られました。

 一月二十日招魂祭、二十一日御納棺、二十八日告別式が行われ、御霊枢は三十日の深更午前一時天恩郷を出発して十五里の道を役員信者たちによって綾部へお移しされました。そして御霊枢は彰徳殿に安置され、二月二日午前九時より御葬祭が執行され、奥津城は天王平に開祖の奥津城と並んで建てられ、ここに瑞霊真如聖師は永久に鎮まり給うことになられたのであります。

35 晩年の聖師

 愛善苑が発足すると間もなく、三月三日には綾部鶴山の築山工事の着工、さらに三月二十一日には天恩郷の建設工事が開始されました。

 四月三日、聖師御夫妻は沓島冠島遥拝のため舞鶴市大丹生へおもむかれました。聖師御夫妻は葦谷の山麓から駕籠に乗られ、数十人の信者が後につづいて山に登りました。山頂から見れば、はるか霞の中に墨絵のように冠島、沓島の両島が海上にうかんでいます。聖師御夫妻は、かつて明治の時代に開祖とともに小さな舟で両島に参拝されたことを思い出され、まことに感慨無量の体に見られました。この遥拝の場所を国見山遥拝所、登山道を国見坂と命名されました。同夜と翌四日滞在、五月朝大丹生を出発、正午綾部に帰られました。

 四月下旬には雑誌「愛善苑」の創刊号が発行されました。

 聖師は昭和十年の事件によって無残に打ちこわされた月宮殿跡や神苑を幾度か巡ってごらんになりました。そこには天恩郷名物のお多福桜が咲いており、あちこちに石垣が残っていました。天気の好い日は、更生車にゆられて朝早くから農園を出て天恩郷に行き、工事を監督指揮されました。お孫さんの曙ちゃん(梅野さんのお子さん)を抱いた聖師のお姿が、ウインチをまきつつ働く信者の中に見られることもありました。

 聖師御夫妻は五月八日の朝、綾部を立って十一年ぶりに松江市赤山の松楽苑(旧別院跡)へ赴かれました。ここは、昭和十年十二月八日の暁、突如弾圧の嵐が聖師の身辺をおそったゆかりの地であります。

 着かれた日は各新聞記者と面接して、新築の館に休まれました。翌日赤山に登って見られました。


 別院は見るかげもなく壊たれて
      後に残るは諸木のみなる

 三本の歌碑は残らず砕かれて
      神苑内に横たはりおり


 これは聖師の歌日記からのお歌であります。

 すみ子夫人は感慨を次のように歌われています。


 かえりみれば十一年の夢ぞかし
      花咲く春にあいにけるかな

 かえりみれば昔が夢かいま夢か
      夢の中なる夢の世の中

 かえりみれば四十六年の昔なり
      母の旅路の姿目に見ゆ


 九日から十五日までは信者に面接され、また色紙や短冊に染筆されたり、また信者の催しの演芸会に旅情を慰めたりされました。十六日、聖師御夫妻は地恩郷を訪れ、翌日は絵絹や額または衝立に雄渾な筆をふるわれました。

 十八日一行は出雲大社に参拝し、二十三日鉢伏山に登り、二十六日綾部に帰られました。

 六月四日(旧五月五日)午前十時より綾部鶴山において築山富士の鎮祭が執行されました。

 田植がはじまると、聖師は田植初めをされました。またある時は、園部の旧知の宅を訪れ、南陽寺に旧友と語り、ある時は旧知の霊をとむらったりされました。

 六月二十七日、西本願寺法主大谷光照氏が中外日報社主真渓涙骨氏に案内されて中矢田農園に来訪され、同志社総長牧野虎次氏も加わって、聖師と親しく語り合われました。

 さらに聖師御夫妻は、紀州の信者たちの懇望にこたえて、七月十六日早朝、亀岡を出発し、大阪より船で紀州路の旅につかれました。十七日新宮市三輪崎につき、数十名の信者に迎えられて聖師御夫妻はカゴにて山路を登り、三高農園の山荘に入られました。ここは中谷の別荘として知られ、太平洋を俯瞰する眺望雄大、景色絶佳の地であります。聖師は山荘を梅松館、三高農園一帯を快山峡と命名されました。聖師は夫人と出口伊佐男氏と三人でゆっくり語り合われました。また信者の面接、色紙の染筆、屏風の揮毫などに時を過され、また紀州地方の物故者の慰霊祭に参列されたりして、二十六日午後九時亀岡に帰られました。

 八月九日午前九時より綾部本宮山々上において聖師の第七十六回生誕の礼拝が行われました。

 常に活動して止まれなかった聖師は、晩年になっても、天気が好ければ農園から天恩郷に出むかれて、弱くなっておられた足を引きずるようにして現場の工事監督をされるのでした。それも炎天の七八月の頃で、よほどお身体におこたえになられたのか、八月十四日工事監督中腹痛を起され、工事半ばの瑞祥館に一夜を過されましたが、平癒されましたので、十七日の夕、中矢田農園にお帰りになりました。然るに、八月二十五日月の輪台を完成され翌二十六日にいたって突如脳出血のため重態におちいられました。

 しかし、その後幾分快方に向われ、十二月五日に瑞祥館が落成したので、中矢田農園から移り、絶対安静、面会謝絶で静養されていました。

 十二月八日、愛善苑会則が改正され、天恩郷の道場が落成し、本部を併置することになりました。

 聖師は病床にあっても、愛善苑の順調な発展ぶりには満足せられ、殊に宗教界、思想界の動向には常に多大の関心をよせておられました。昭和二十一年の秋、京都において国際宗教懇談会が開かれ、愛善苑委員長出口伊佐男氏が出席された時などは、かつて御自分が提唱された世界宗教連盟実現の第一歩であるといって大へん喜ばれました。また昭和二十二年一月二十日、愛善苑が宗教法人令による法人組織の手続が完了した時も聖師は喜ばれました。また八月二十七日は聖師の喜寿を祝う瑞生祭が盛大に亀岡で執り行われ、十二月八日の新生記念祭には本部事務所竣工式が行われました。聖師はこの新生記念祭の当日、非常に喜ばれて、御安心になったためか、御病状がやや悪化しました。

34 愛善苑の新発足

 聖師は昭和十七年八月、保釈出所後中矢田農園に起臥して静養されました。戦争はいよいよたけなわになって、B29は自由自在に日本の上空を荒れまわりました。聖師は、よく「今度の戦争はあかんで、何としても負けや」と、こんなことをよく側近の人々に語られることもありました。これが警察や憲兵隊の耳にでも入ったなら、保釈が取消されるだけでない、問題になると思って、はたの人々ははらはらさせられました。

 昭和十九年の暮から楽焼の製作を始められました。家族や周囲の人々が、御健康にさわってはと案じて止めるのもきかれず、聖師は全霊をこめて楽焼の製作にいそしまれました。その数三千以上、後年茶道美術評論家加藤義一郎氏によって世に紹介され、驚異の的となった耀琓(ようわん)も、この間に製作されたものでありました。

 しかし、何といってもお好きなのは和歌で、保釈になってから先ず始められたのが和歌でありました。その頃は視力が余程衰えられたために、短冊や色紙に染筆されることも困難でありました。その短冊帳、色紙帳だけでも百幾冊出来ていたのでありましょう。そしてひそかに次々と訪ねてくる信者に面接されました。

 ついに戦争は敗戦となりました。社会の情勢は一変し、言論、出版、信教、結社の自由が叫ばれ、いろいろな団体は続々再建しました。

 第二次大本事件によって、大本をはじめ、一さいの外かく団体は解散を命ぜられていたので、聖師は大本は「愛善苑」という新しい名によって新発足するように提唱されました。

 昭和二十年十二月八日、綾部において大本事件解決奉告祭が執り行われました。新聞紙上で知った全国各地の約八百の信者が綾部に参集しました。祭典は綾部町から寄附した武徳殿を彰徳殿と改名してそこで執行されました。

 この日の祭典は極めて簡素で、聖師御夫妻が神籬の前にならんで先達をされ、一同が天津祝詞を斉唱し、玉串奉奠の後、本宮山にむかって拍手礼拝がありました。

 大本事件中の物故者慰霊祭は出口夫人の先達で天津祝詞の斉唱があり、夫人は事件解消の顛末を霊前に細々と告げられました。

 祭典が終って、聖師、夫人の御挨拶にうつりました。

 昭和二十年十二月八日――大本事件の起った日から満十年ぶりで、聖師は綾部、亀岡両町の当局者および信者の前に起たれたのであります。聖師の鬢髪は目だって白く、お顔には長年月の獄中生活の御苦労がありありと現われていました。満場水を打ったような中に、聖師は黙ってただお辞儀をされました。

 次いで夫人は簡単に挨拶をされ、つづいて出口伊佐男氏は、大本事件の経過を述べ、われわれは当時の弾圧に対して当局を恨む気持は毛頭なく、天の試練として、どうしても経なければならなかった道であると宗教的な反省を示され、形をつくることよりも先ず魂をつくり上げ、心の準備、心の用意の必要なゆえんを力説されました。そして近く亀岡を根拠として、愛善苑という世界平和を目標とする人類愛善運動を起されることを宣言されました。愛善苑は、大正十四年六月に設立せられた人類愛善運動の趣旨をそのまま実地におこなってゆこうとするものであることが宣言されました。

 聖師は綾部の祭典をおえ十日出発、鳥取市外吉岡温泉に滞在、越年して一月八日綾部に帰られましたが、この吉岡温泉に滞在静養中、聖師は来訪した新聞記者に大本弾圧の真相と新日本建設の感想を次のように述べておられます。

 「自分は日華事変から第二次世界戦の終るまで囚われの身となり、綾部、亀岡の本部をはじめ、全国四千余にのぼった教会を全部叩き壊されてしまった。
 しかし信者は教義を信じ続けて来たので、すでに大本は再建せずして再建されているのだ、
 治安維持法違反は無罪となったが、不敬罪は実につまらぬことで、『日の光り昔も今も変らねど東の空にかかる黒雲』という浜口内閣時代[※昭和4~6年]の暴政をいったものを持ち出し、これはお前が主権者になるつもりで、信者を煽動した不敬の歌だといい出し、黒雲は浜口内閣のことだといったが、どうしても通らなかった。
 自分はただ「全宇宙の統一和平」を願うばかりだ。日本の今日あることは、すでに幾回も予言したが、そのため弾圧を受けた。火の雨が降るぞよ、の警告も実際となって、日本は敗けた。

 これからは神道の考え方が変って来るだろう。
 国教としての神道がやかましくいわれているが、これは今までの解釈が間違っていたもので、民主主義でも神に変りがあるわけはない。
 ただ本当の存在を忘れ、自分の都合のよい神社を偶像化して、これを国民に無理に崇拝させたことが日本をあやまらせた。
 殊に日本の官国弊社の祭神が神様でなく、ただの人間を祭っていることが間違いの根本だ。
 しかし、大和民族は絶対に亡びるものではない。
 いま軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命が含まれている。
 本当の世界平和は、全世界の軍備が撤廃されたとき、はじめて実現され、いまその時代が近づきつつある。」

 かくして昭和二十一年二月七日をもって愛善苑は「愛善苑設立趣意書」を発表して新発足しました。聖師は苑主として起たれたという報が伝えられると、長い冬が過ぎて若草のもえ出るように運動はたちまち全国にひろがり、続々と人々は綾部、亀岡に集まって来ました。

このページのトップヘ