6 幼少年時代

 喜三郎さんは幼少の頃から「喜三(きさ)やん」と愛称されていましたが、神童だとか、地獄耳、八ツ耳だとか言われたくらい、記憶力がよく、どんなことをきかれても即座に立派な答が出来るので、村人達もみな驚いたということであります。

 喜三郎さんが七歳のとき、父の吉松氏は船岡の産土神社の祭礼に参拝するために、喜三郎さんをつれて生家へ帰って行きました。そのついでに、船井郡雀部の漆さしの家に立ちより、無病息災のためといって、喜三郎さんの腹部へ十数点の漆をさしてもらいました。そうすると、身体一面に漆が伝播してカユくてたまらず、さらに瘡になってしまいました。それがために学齢が来ても学校へ行くことが出来ないので、祖母の宇能子さんが平仮名から五十音、単語篇に百人一首、小学読本と次々に教えられました。それで十歳の春、入学した時には大へん学力がついていました。

 祖母の宇能子さんは、かの有名な言霊学者中村孝道の家に生まれたので、言霊学の造詣がふかく、喜三郎さんは十歳ぐらいの時から祖母の口から厳霊の妙法を説明されて、何時とはなく言霊の研究に趣味をもつようになり、人のいない山や野に行って大きな声で『アーオーウーエーイー』と唱え、時々人に見つかって笑われたり、発狂人と誤られたこともありました。

 喜三郎さんは、少年時代は他の少年らと同じように兵隊ごっこをしたり、川遊びをしたり、相撲をとったりして遊ばれました。

 喜三郎さんは十二・三歳の頃から、おぼろげながら社会の不正に対して疑いを抱かれるようになりました。みるもいぶせき水呑み百姓の伜として、中産以上の児童や百姓や地主から、しいたげられた喜三郎少年の姿は、その「破衣」と題する詩の一節によく現れております。

     破衣

 麦と米とのたきまぜ飯も
   ろくに食えない百姓のせがれ
 足袋は目をむき着物は破れ
   寒さ見にしむ片田舎
 わしの人生はこんなものか
     ○
 愛宕の尾根に白雲かかり
   次第次第にひろがりて
 み空はくらく雨は降る
   農家のせわしき田植時
 夜から夜へと働いて
   聞くも楽しいほととぎす
     ○
 冬の夜霜にふるえてなくか
   声も悲しい寒狐
 こんこんこんと咳が出る
   人の情の薄ごろも
 如何にしのがんこの浮世
     ○
 花は匂えど秋月照れど
   遊ぶに由なき小作のせがれ
 若い時から面やつれ
   営養不良の悲しさに
 からだいためし秋の空
   冷たいうきよの風が吹く
 これでも私の人生か
     ○
 僕の人生はどこにある
   小作の家のせがれぞと
 地主富者にさげすまれ
   父の名までも呼び捨てに
 されてもかえす言葉なし
   待て待てしばし待てしばし
 俺にも一つの魂がある。
(歌集「故山の夢」より)

 今に自分が壮年になったなら、小作階級を救おうと考えられたのは、この頃でありました。貧しい家に生まれながらも、喜三郎少年は何か一つのほのぼのとした大きな希望の中に生長されたのでありました。