7 小学校時代

 喜三郎さんが小学校在学中に一つの事件が起りました。

 ある時、吉田有年という先生から修身書を教っておられました。修身書の中に大岡越前守忠相という字句が出て来たところ、先生は「タダアイ」と読んだので、喜三郎さんは立って「タダスケです」と注意をされました。

 先生はききませんでしたので、喜三郎さんはどこまでも「タダスケ」を主張されました。先生は大へんに怒って「貴様は生徒の分際として教師に反抗するとは不都合な奴だ」といって喜三郎さんの手首をぬけんばかりに引っぱって行こうとするので、思わず校長先生の名を呼ばわりました。隣室に教鞭をとっていた校長先生は驚いて走って来ました。

 逐一事情を話されますと、校長先生は本を見ながら大勢生徒のいる面前で「ここは生徒の読んだタダスケが本当だ、君もモ少ししらべておき給え」といいました。

 喜三郎少年の小さな胸はおさまりましたが、吉田先生はそれ以来、喜三郎さんを非常に憎みました。一字でも一句でも、読み誤りがあろうものなら、なぐったり、あさ縄の太いので後手にしばり上げたり、大きな珠算の上に、一時間あまりも坐らすというような乱暴をしました。

 そればかりでなく、乞食が通れば「喜三郎さまのお父さんが通る、お母さんが通る」と指さし、倒れかかった雪隠があると「喜三郎さまのリッパなお宅だ」と嘲るので、他の生徒までが面白がって手をうって笑うのでありました。

 喜三郎さんは子供ながらも怒りの極点に達し、ある日吉田先生の学校から帰る途中を待ちうけ、青杉垣の中から竹の先きにクソをつけたまま先生の腰の辺を突きさし、自宅へ逃げ帰られました。

 これが学校の問題となって、吉田先生は免職となり、喜三郎さんも退校を命ぜられました。しかし数日後に喜三郎さんは吉田先生の代用教員として採用され、下級の生徒に教鞭をとられることになりました。