12 青年時代の煩悶

 喜三郎さんは青年時代には誰にもあり勝ちな思想動揺期における煩悶を経験されました。十三歳ぐらいの時に、この世の中は、何とかして救われなければならぬと、おぼろげながら考えられたことがありますが、青年時代になって、真剣にこの問題にとりくまれました。

 富者を見ても、貧者を見ても、当時の喜三郎さんの胸には常に一つの疑問が去来しました。

 一体、土地といい、資本といい、一さいの生産機関なるものは、人類全体を幸福に生活させるために、天から与えられたものではあるまいか。それを地主や資本家なるものが、その利益を自由にろう段しているのであるが、何の理由があり、何の徳があり、何の権利があって、そうしているのであろうか。宗教は慈悲博愛を鼓吹するとも、いまだ現世を救うにいたらず、ただ死後の楽園を想像せしめて、われわれの心中にわずかに慰めを与えるに過ぎない。教育は、多大の知識を与えるけれども、半日の衣食をも産出するものではない。また道徳の最低限度を標準として作られた法律は、よく人の行為を責罰するとも、人類を天国の人たらしめる道具ではない。海陸の軍備は充実するとも、国防の上には役立つが、多数の苦しんでいる人類を幸福に生活せしめる利器ではない。どうしたらこの矛盾せる社会を一掃して天国化することができるであろうか。世界の現状を見れば、人類の苦悩と飢凍とは日一日と迫って来る。これを黙視していいもであろうか。これが真理、正義、人道なのであろうか。──こうした疑問が絶えず喜三郎青年の胸中に去来していたのでありました。

 しかし、この疑問に対して、根本的の解決を与えてくれるものは何もなかったのであります。今日であったら、喜三郎さんは左翼の運動にでも走りかねまじき疑惑にぶつかられたのであります。

 よく世間にはインチキな侠客があって、弱いものイジメをしたり、酒をのんでは暴行をはたらいたり、バクチをしては村の風紀を乱したりすることがあります。喜三郎さんは父吉松氏の死後一ヵ年の間に、そうした無頼漢を向うへまわしてよく喧嘩をされたり、喧嘩の仲裁をされたりしました。

 喜三郎さんの度胸がいいのをみて、或る侠客は自分の家の養子にしようとしたくらいでありました。喧嘩の仲裁がウマく行くと、たちまち評判が高くなって、喧嘩の仲裁は喜三やんに限るという風に村の者におだてられ、しまいにはどこかに喧嘩がないかと探すようになりました。そうなって参りますと、久兵衛池事件以来、弱者に対する同情と強者に対する反抗とが一つになって、いっそのこと弱い者を助け、強い者をくじく侠客──明治の播髄院長兵衛になってやろうかと考えられるようになり、わずか一年足らずの間に前後九回も大きな衝突をされ、無頼漢から恨みを買われたのであります。