18 聖師の大本入り

 開祖は明治二十五年から、口に筆に救世主の出現を待っておられました。それは次のような筆先に現われていました。

 「このことわけるみたまは、ひがしからでてくるぞよ。このおかたが、おいでになりたら、さっぱり、ひのでのしゅごとなるから、せかいじゅうに、しんとくが、ひかりかがやく、かみよになるぞよ」

 開祖は聖師と会見されましたが、この人が自分の待っていた人であるとは思われませんでした。年もあまりに若いし、開祖の大嫌いな稲荷講社の人だということでしたから、まさかこの人ではあるまいと思われましたが、聖師が去られてから、自分の待っていたのは上田喜三郎であるという意味のことが、筆先にしきりに出されたのであります。

 それで翌明治三十二年の節分ごろ、開祖は役員の四方平蔵さんに聖師に関する筆先を示され、一日も早く聖師を迎えに行くように命ぜられましたので、四方氏は役員たちの反対があったにもかかわらず、植付がすんだら迎えに行くという手紙を聖師宛に出されました。そして旧五月二十四日、四方氏は聖師のお迎えに行かれました。その時、聖師は丁度園部川で瓶づけという方法で川漁をやっておられる最中でありました。

 四方氏は一たん扇屋という宿屋に泊り、夜聖師を訪問してお迎えに来た事情をくわしくお話して、綾部へ御同道を願いたいと申しましたので、聖師は敵中へ飛びこむようなものであるとは知りつつ承諾されました。

 かくして旧五月二十六日、聖師が二十九歳のとき、第二回目の参綾となって開祖を訪ねられることになりました。当時開祖は裏町におられたのでありますが、聖師のみえたことを心から喜ばれました。ここに大本は、開祖と聖師との結合によって、確固たる土台のうえにおかれることになったのであります。

 明治三十二年六月には次のような筆先が開祖の御手を通じて示されました。

 「うえだどの、よう、たいもうな、ごようを、いたしてくださりた。そなたが、あやべへ、まいりたのは、かみのしぐみが、いたしてあること。なにごとができるのも、みな、てんであらためが、いたしてあることであるぞよ。

 九ようのもんを、一つふやしたのは、つごうのあることであるぞよ。いまはいわれぬ。このことじょうじゅいたしたら、おんれいに、けっこうをいたすぞよ。

 うしとらのこんじんの、はじまりのせわを、いたしてくださるのは、まことのひとが、でてこねばおさまらぬと、もうしてあるが、このひとが、かみのまことのせわを、いたしてくださるかたぞよ。うしとらのこんじんのみちの、せわをいたした、じんみんには、なんなりと、ひとつの、こうのうをさしてみせるぞよ。まんご、まつだい、のこることを、いたさすぞよ。

 じせつが、まいりて、いりまめにも、はながさきて、こんこうどので、おもてへ、でかけたなれど、ちょっとのところが、じょうじゅせず、おもてになりて、おらんから、いんねんある、でぐちなおに、くろうをさして、だしてもらわな、このことは、じょうじゅいたさんぞよ。それについては、うえだどの、ふかい、いんねんありて、たいもうな、ごようをいたさして、よをすくわすぞよ」

 ここに九曜の紋とありますのは、大本の神紋はもと九曜であったのですが、一つ紋がふえて十曜(とよう)の紋になった動機は、次のようなことがありました。

 聖師の参綾後は求道者もふえて来ましたので、裏町から本町の中村竹蔵氏方にお広間をうつし、旧六月三日移転祭が執行されました。この時、お祭りの準備に註文した高はり提灯の神紋九曜の紋が、どう間違ったものかみな十曜の紋になってまいりましたので、今さら仕直しなどをしていてはお祭りに間にあわず、役員は非常に心配して、開祖に申上げますと、

 「これは神様の御都合のことで、上田さんが綾部に来たので、御神紋が変ったのである」
とおっしゃったので、役員一同安心しました。

 さらに旧六月十日の筆先には、

 「なおのおよつぎは、まっしのおすみどのであるぞよ」と示され、旧六月二十三日の筆先には、

 「うえだどのにごようきかして、さきでおよつぎといたすぞよ」
と示されました。

 末子のおすみとは、のちの二代教主のことであります。

 ところが、内心すみこ子さんの婿になるつもりでいた連中は、こぞって聖師に対して排斥運動をはじめましたが、明治三十三年一月一日聖師とすみ子さんとの結婚式がおこなわれ、聖師は出口王仁三郎と改名されて、明治四十年旧十一月二十七日入籍の手続が出来たのであります。

 明治三十年から明治三十八年にわたって、冠島(おしま)開き、沓島(めしま)開き、鞍馬山参り、元伊勢の水の御用、出雲大社の火の御用、開祖の弥仙山(みさんざん)籠り、開祖の沓島出修等がありましたことは、開祖伝の中に記されていますから、ここには省略さしていただきます。