20 聖師の苦闘

 この間における大本の役員たちの聖師に対する反対、排斥、圧迫はとても口や筆で言いつくすことは出来ないのでありまして、今から考えると、そんなバカバカしい、理不尽なことが果してあったのであろうかと疑われるくらいのものであります。

 当時の役員たちは、開祖の筆先の上よりみて、聖師の肉体は神業のために必要なので追い出すことは出来ないが、その肉体にやどっている守護神が、小松林命という四つ足の悪の守護神であるという風にとっていたのですから、聖師に対してさまざまな無礼をしたものであります。聖師に塩をふりかけたり、タンツバをかけたり、しまいには六畳敷の一室に入れて一挙一動を監視するというようなことになって来ました。或る時は四方春三以下十人ばかりの役員が、暗殺隊をつくって待ち伏せていましたが、聖師に機先を制せられて逃げ帰り、開祖から叱られたようなこともありました。

 「開祖は経の教えを説かれる役、聖師は緯の教えを説く役」であると説明しても、役員たちは信ぜず、聖師はほとほと困られたのですが、聖師は役員たちにむかって、

 「君らは開祖様の御馳走される糞尿と、私が御馳走する飯と鯛とどちらをとるか」
と聞いてみると、一人の役員は

 「開祖様の糞尿ならありがたく頂戴する」
というので、これでは到底ダメだと考え、聖師は大阪の内藤七郎氏方へ行かれたことがあります。

 その後、用が出来たので、聖師は洋服を着て綾部へ帰られました。一同は聖師の行方を探していたので、聖師の帰って来られたのを喜びはしたものの、またまた小松林の四つ足の悪の守護神呼ばわりをし出し、洋服を着たり皮のカバンをもつなどということは、外国のヤリ方だというわけで、洋服はひきむいて雪隠へほうり込む、鞄はどこかへ片づけてしまいました。そしてどこへ行くにも張番をしてついてくるので、たまらなくなって出て行こうとするけれども、出してくれず、しいて出て行こうとすれば、「これでも行くか」といって四・五の役員らが出刃包丁をもって切腹しようとするのです。おどかしでなく本気なのだから、手がつけられず、仕方なしに往生して一ヵ年ばかりまた腰をすえることにされました。

 また聖師が苦心して書かれた書物を役員たちは、ことごとく焼きすて、神という字はモッタイないといって、一々神の字だけを切りぬきました。その切り抜いた神の字だけが、蜜柑箱に数はいあったということであります。その中で残ったのが現在の「道の栞」、「道の大本」、「筆のしづく」などであります。

 一室へおしこめラれ手、代る代る張番をして自分の自由にならぬので、古事記を研究しようとすると、そんなコジキの学問なんか、釈迦の真似などすることは要らぬといってとり上げてしまう。それじゃ日本書紀を読もうというと、日本書紀ならよかろうというわけでしたが、その本を見てこれは角文字ぢゃないか、大本は横文字や角文字はいかん、いろは四十八文字で世を開くのだというので、とり上げて焼いてしまうという始末です。仕方がないので、フトンをかぶって豆ランプの火で調べものをしたり、筆を執ったりされました。

 聖師は大本の役員連中が目をさますまで、一時大本を去っている方がよいとお考えになりまして、明治三十九年から四十年まで大本を去られました。聖師は三十六歳の時、明治三十九年旧七月二十二日京都の皇典講究所へ入学され、明治四十年旧二月十八日に卒業されました。

 聖師は建勲神社の主典に補せられ、その後、御嶽教の副管長を務められましたが、聖師が大本を去られてからは、役員信者は一旦チリヂリバラバラになって、大本は火の消えたようになってしまいました。

 しかし、聖師は多年にわたる研鑽の結果、今まで疑われていた筆先の真意の了解がつきましたので、明治四十一年にほかの仕事を全部やめて、綾部にお帰りになられましてから、再び大本は勢よくひろがって行ったのであります。