24 第一次大本事件

 大正十年[※1921年]二月十二日、突如第一次大本事件がおこりました。

 二月十一日の夜、司法当局の命を受けた藤沼京都府警察部長は、ひそかに署長会議を開き、京都市内各警察署長とともに、大本検挙応援隊の出動を打ちあわせ、十二日午前一時警察部の各課ならびに市内各署にむかって非常召集を命じ、同日午前六時藤沼部長は、京都駅に集まっている各署選抜の武装警官隊を率い、予審判事、検事らとともに、六時すぎ京都駅発の山陰線列車に乗りこみ、他の一隊は二条駅から同列車に乗りこみ、総勢百三十余名と註せられました。

 当事者の警戒注意は周到をきわめたもので、機密の漏洩をおそれて、舞鶴行きの切符を与えて目的を明示せず、花園駅を通過する頃、全員に対して、大本主脳者検挙の旨を伝えたということでありますが、まず十二日の早朝、全国の新聞雑誌に、今回の事件につき、記事の掲載を禁じ、午前八時検事局の一隊が綾部に到着すると同時に、第一に郵便局に至り、司法権をもって、綾部対日本全国の電話電報の発信を中止させ、さらに当日現在の集配、双方の書簡全部の留置きを厳命し、これに見張りをつけ、殊に大本宛て、また大本より各方面あての書簡も同様、内容を厳重に点検しました。

 藤沼部長の一隊は、綾部署員全部、福知山、舞鶴両署よりの応援隊と合し、総員二百余名、その大部分は、藤沼部長指揮のもとに、大本本部を包囲し、残部は数隊に分れ、役員の家宅捜査に従事、また町内の各要所には警官が配置されて、その物々しさはさながら戒厳令の布かれたようでありました。

 大本の周囲神苑内の要所々々、各建物は正服の警官によって固められ、内外の交通は全く遮断されました。二代教主はじめ大本役員は、全部受付の一間に集められ、不敬罪、新聞紙法違反等の嫌疑で家宅捜索を開始すべき命令が伝えられ、一斉に捜索は開始されました。

 本部の大捜索は午後三時ごろ終り、山と積んだ押収物品は荷車七台で綾部警察署および附近の公会堂に運ばれました。

 当時聖師は大阪の大正日々新聞社に起臥され、筆を執っておられましたが、二月十二日午前九時半ごろ、不敬罪および新聞紙法違反の嫌疑で拘引されました。聖師は京都警察部着、高等課に留置され、午後五時綾部から帰った藤沼部長の取調べ後、京都地方裁判所に押送、予審判事から、不敬罪ならびに新聞紙法違反として令状を執行され、夜八時、自動車にて京都監獄に護送、未欠監に収監されました。

 当時の最高幹部浅野和三郎氏および出版印刷の責任者として吉田祐定氏は十二日京都検事局で一応の取調べをうけ、翌十三日同じく京都未決監に収監されました。

 二月二十二日に再度の大本本部の家宅捜索が行われましたが、今回の事件につき、関係者として検事局予審廷に参考人もしくは証人として、召喚審問をうけた人々は、二代教主はじめ約八十名におよびました。五月に入って取調べは一段落つきました。

 その筋の命により、新聞雑誌に本事件につき一さい掲載を禁止されていましたが、五月十日掲載禁止解除になったので、大阪朝日、毎日をはじめ全国の新聞紙は筆をそろえて二頁大の号外を出し、捏造誇張毒舌のかぎりをつくして書き立てました。

 朝憲紊乱、陰謀、爆弾隠匿、地下室、十人生き埋め、殺人、強姦、竹槍十万本――まるで探偵小説家か何かにありそうな記事が扇情的に載せられたのであります。

 盲目的に無批判に新聞を読む一般世間の人々は、これをそのまま信じてしまいました。こんなことが一つでもあろうものなら、リッパな犯罪を構成するわけですが、大衆は羊のごとく従順に、この新聞記事を信じたのであります。

 しかし、五月十一日、予審決定書が京都地方裁判所から発表されたところを見ますと、聖師、浅野和三郎氏に対する不敬、新聞紙法違反、吉田祐定氏に対す新聞紙法違反被告事件につき、問題となっただけでありました。すなわち雑誌「神霊界」誌上に発表された大本神諭ならびに浅野和三郎氏の文章に、皇室に対して不敬と解せらるべき文字ありということで、本件は京都地方裁判所の公判に附せられることになったのであります。

 突如弾圧の嵐におそわれた大本は比較的平静でありました。というのは、大正八年の「神霊界」誌上に発表された神諭の中に、

 「三年先になりたら、余程気を附けて下さらぬと、ドエライ悪魔が魅を入れるぞよ。辛の酉の年(大正十年)は変性女子に取りて、後にも前にもないような変りた事が出来て来るから、前に気を附けて置くぞよ」

と示されてあったからであります。ここで変性女子というのは、聖師のことを指されたものです。

 大正十年十月五日京都地方裁判所の第一審において懲役五年の判決を受け、大本側は直ちに控訴いたしました。

 一方当局は天王平における開祖の奥津城の改造、本宮山神殿破壊の命令を発するというわけで、大本の内部は多事多端でありました。神殿破壊を命ぜらるるにいたった理由は、「無願の社寺を建立すべからず」という太政官令によったものであります。その太政官令は、明治五年に制定せられ、当時、日本は明治維新直後の混沌たる状態にあり、かつ憲法発布から二十年も前に発せられた古い規則によったものであります。

 元来、この大本事件なるものは、錯覚からはじまった事件でありまして、事のおこりは加藤某という一狂人の内申がその原因をなしていることは、新聞記事解禁の当時に発行された全国各新聞の号外を見れば明かであります。

 加藤某は、自ら大本の幹部になろうという野心をいだいて、大正九年ごろ大本へ来たのでありますが、その野心が容れられず、さまざまな錯覚報告をしたのであります。その錯覚報告にもとづいて大捜索をしたのですから、泰山鳴動して鼠一匹も出なかったのであります。

 大阪控訴院の二審判決は、大正十三年七月二十一日一審同様有罪となったので、ただちに上告を申立てることになり、大審院において審理を遂げ、ついに大正十四年七月十日にいたり、聖師に対する「原判決には事実の誤認を疑うに足るべき顕著なる事由存することを認むるをもって、同判決は之を破毀すべきもの」との理由で、前判決は破毀され、あらためて事実審理が開始されることになりました。

 しかるに、大正十五年十二月二十五日大正天皇が崩御遊ばされたため、大赦令により、昭和二年五月十七日大審院において免訴となって、足かけ七年にわたる大本事件はここに自然解消して、聖師はまったく青天白日の身となられたのであります。

 この事件によって世間の人々は、全国の新聞紙が虚構のことを書き立てたことを、そのままウのみに信じている人が多いのでありまして、大本や出口聖師について、どれほど知っているかといえば、ほとんど何も知っていないといってよいのであります。

 大本事件の弁護士であった花井卓蔵博士が「大本教は如何なるものか、出口王仁三郎とは如何なる人物なりや」という某氏の質問に対して、次のように語っているのであります。

 「大本教の如何なるものなるやは断言するだけの確信的知識を有せざるも、出口の不敬罪は、自ら不敬罪を犯しているものは何もない、認定によりては不敬になると思わるるものがあった。しかるにこれを出口に背負わするはムリであるにかかわらず、出口が背負わなければならぬことになったのである。
 出口の人物はそこに面白い点が発見さるるとともに、利巧かバカか見当のつかぬ男ともみらるるのである。
 しかし、宗教家としてみれば実にえらい信仰をもった者と認めねばなるまい。
 出口が検挙せられて警察官、検事、予審判事等より累次の取調べを受くるや、その訊問は一々出口の不利であり、弁解の途は幾らでも立つことであるにかかわらず、彼は「左様でございます──」とことごとく肯定してしまった。
 ここにおいて法律上不確実なる証拠材料が正確なものとなり、有罪疑いないこととなったのである。
 なんでこんな不利な訊問に対し一言の弁解もせず承認したのかと尋ねたら、「弁解すればとて聞き入るるものでなく、ただ事件が永びくばかりなれば、早く役人のいう通りになれと神様が教えられ、何もかも承認したのである」といった。
 これは一寸普通人の出来ぬことで、訊問事項を承認すれば、有罪となるべきは法律知識のないものでも明かに知らるるのである。
 それにかかわらず、目前の利害をすてて神託に服従したところに、出口の宗教家としての如何に強き信仰信念をもっているかということが認められるのである。

 かような事情にて出口は神様まかせで至極呑気であるが、我々弁護人としては、そのまま見殺しにするわけには行かぬ云々」

 この一事によって明かであるように、聖師は他の人々の言行の不穏と誤解の結果、幾度か災厄にあわれています。聖師は御自分が贖罪的使命をもっていることを自覚され、すべての罪責を一身に引きうけ、もって本懐としておられたのであります。