26 エスペラントとローマ字の採用

 「いまや自己の運命を自覚している新しい人類の最初の仕事は、万人に共通なる言語を採用することでなければならない」──こうロマン・ローランがいっているように、国際補助語の問題は、解決すべき人類の諸問題の中で、もっとも重大なものの一つであります。

 聖師は大正十年の秋、世界平和の精神的土台となるべき「霊界物語」を発表されるとともに、第一に着手された仕事は、国際補助語エスペラントとローマ字の採用でありました。これは何でもないことのように考えられるかも知れませんが、大本の歴史の上からみて、最も特筆すべきことの一つでありました。何故かと申しますと、第一次大本事件以前の大本の信仰思想は、排外的の国家主義であったからであります。大本神諭には一見外国ぎらいのように解釈される文字が、いたるところに散見されますので、横文字などを読むものを、外国魂扱いにして卑しんでいたものであります。これなども神諭の真精神を曲解したおそるべき傾向の一つでありました。そうしたかたくなな信仰思想は霊界物語の発表とともに漸次修正されてはいましたが、聖師のエスペラントおよびローマ字の採用は、当時の大本に革新的な空気を注ぎ入れました。

 大正十二年七月、聖師は京都同志社大学の学生重松太喜三氏を招へいして、綾部において一週間講習会を開き、みずから講習をうけ、エスペラントを奨励されたので、エスペラント運動はすばらしい勢をもって燃え上りました。まずエスペラント普及会を設けて雑誌「ヴェルダ・グローロ」(緑の光)を発行されることになりました。のちにこの雑誌は「ヴェルダ・モンド」(緑の世界)と改題され、全国各地に支部をおき活動したのであります。聖師はさらに初学者のために「記憶便法エス和作歌辞典」を著されました。公定語三千六百を選んで、それを和歌に読みこみ、その辞典を十五日間で完成されました。

 エスペラントが採用されると、日本の有名なエスぺランチストがつぎつぎに綾部をおとづれるようになり、また大本からも各地でひらかれるエスペラントの会合に出席して、エスペラント運動はたちまち全国の信者の間にひろがりました。

 一方ジュネーヴ市の万国エスペラント協会の機関紙「エスペラント」誌上に大本運動の簡単な紹介記事が載せられましたところ、各国のエスぺランチストたちからさかんに大本について照会の手紙が参りました。大本ではエスペラント採用後まもないことでありましたが、大本のあらましをパンフレットにまとめ、世界四十八ヵ国のエスぺランチストや団体あてに発送しました。世界にはエスペラントの新聞雑誌がいろいろ発行されていますが、それらの新聞雑誌は一斉に大本を紹介しました。また、それが各国語に翻訳されるというわけで、大本運動はエスペラントを通じて、素直に欧米に紹介されたのであります。

 本部では海外宣伝部をおいて、エスペラントによる"Oomoto"(大本)という月刊雑誌を発行しました。

 聖師はエスペラントを採用されるとともに日本式ローマ字を採用されました。ローマ字論者は国字をローマ字に改めることを主張しているのでありますが、聖師がローマ字を採用されたのは、必ずしもそういう意味ではなかったようであります。国語の復活に役立つということと、日本語を世界にひろめるには、ローマ字画気書きがよいということであったと思います。

 日本の七不思議の一つは、国語を死語としたこともない代りに、国語を復活したこともないことであります。むかしから言霊の幸う国といわれていながら、今日ほど国語が複雑乱脈を極めている時代はないのであります。新聞、雑誌、ラジオ等で不純な国語に接した人は、国語をもっと正しく、美しく、豊かに、統一あるものにしたいと願うでありましょう。

 聖師はここに眼をつけられて、大正十二年十月ローマ字普及会を設立し、各地に支部を設け、機関誌「言葉の光」"Kotoba no Hikari"を発行して、ローマ字運動をひろめられました。