28 蒙古入り

 聖師は大正十年の大本事件によって、世間から一時全く誤解されてしまいました。

 しかし聖師の如き神人の光が、いつまでも雲におおわれているはずはありません。聖師が、真に世界の平和と幸福のために活動している人であるということが、心ある人々によってやや明かに知られるようになったのは、聖師があの満蒙の天地に、大活躍を試みられた時からのことであります。

 聖師はかねてより同志とともにひそかに入蒙の計画を立て、あらかじめ奉天の張作霖の了解を得、大正十三年二月十三日の夜明け方、随員数名をひきいて入蒙の雄図につかれました。当時聖師はまだ責付中の身でありましたから、大本の幹部たちにさえ、一さい秘密にして綾部を出発されました。聖師は奉天に行って張作霖の部下の一人なる蒙古の英雄盧占魁とはじめて遭って話ができ、肝胆相照らして、ともに手をたずさえて遠征の途に上られることになりました。

 聖師は遠征の途に上るに際して、綾部に集まった信者に対し次のように述べておられますが、そこには聖師入蒙の目的抱負が明かにうかがわれます。

 「神縁によって私がここに神の経綸の一端に奉仕し、今晩を期していよいよ渡支渡蒙を決行せんとするに当り、招かずしてお集まりになった諸氏は、かならずや神界の深き経綸の糸に引かれて、お出になった方々と固く信じます。

 わが大本は既成宗教の如く、現界を厭離穢土となし、未来の天国や極楽浄土を希求するのみの宗教ではありませぬ。国祖の神の仁慈無限なる神勅により、日本の民と生まれたるわれわれは、この尊き大神様の御神示を拝し、わが同胞の平和と幸福のためのみならず、東亜諸国ならびに世界の平和と幸福を来たすべき神業に奉仕せなくてはならない責任を持っているのであります。

 御神示にある通り「大正十年の節分がすみたら、変性女子の身魂を神が人の行かない処に連れゆくぞよ」とお示しになっていることは、神さま御承知のことと思います。その神示は毫末の間違いもなく、二月十二日、私は御承知の京都監獄に投ぜられたのでありました。そしてまた本回も節分祭のすんだ十二日に、人のよう行かない所へ行かねばならぬ、神の使命が下って来たように考えられてなりませぬ。

 私は肇国(ちょうこく)の大精神を天下にあきらかにし、かつ日本の肇国の精神は征伐にあらず、侵略にあらず善言美詞の言霊をもって、万国の民を神の大道に言向和するにあることを固く信じます。凡て世界の人民を治むるは武力や智力ではとうていダメです。結局は精神的結合の要素たる、すべての旧慣に囚われざる新宗教の力によるより外はないと信じます。

 つらつら現今のわが国情を考えてみまするに、わが国の人口は、年々七十万づつの増加をもって進みつつあると統計学者はいっております。この割合で進んで行けば、大正三十一年には七千七百万の同胞となり、同じく五十一年には一億余万人に達するという計算になります。兎に各わが国人口の増加は年々の事実の証明するところであって、これに要する食糧品たる米麦が、現に年々七八十万石の不足を告げつつあることもまた事実である以上、この人口と食糧との不均衡は、わが国存立の上において一問題たらねばなりませぬ。

 国内現在の未懇地を開拓し、耕地の整理を徹底的に断行すれば、約二百万町歩の水田火田が得られ、二千万石の米麦の増収が出来るとの説もありますが、しかしながらこの開墾や整理は、いつになったら完成されるでしょうか。たとえわが官民が熱誠努力の結果、幾十年かの後にそれが完成されるものとしても、その時には人口はすでに一億以上になっている筈であります。

 この人口と食糧との均衡が依然として保たれるでしょうか。国家の前途を案ずれば、百千年の長計を目途とせねばならぬ。一時の糊塗策は、決して国家永遠の存立を保証することは出来得ないでしょう。しかしながら、わが国の植民政策は、かかる基調から発足しているようであります。

 殊にわが国家将来の存立および発展に就ては、単に米麦が満足に得らるるのみではすまされませぬ。日進月歩の世界の前途には、銅鉄や綿類や毛布皮革等を主として幾多の物資が無限に需要さるることは、今日においても明かなる題目であるのに、わが国においては、これを将来に充実せしむべき安全なる政策が立っておりますか、実に思うてみれば心細い次第であります。

 一朝有事のときに海外からその供給を断たれたならば、わが国は如何なる方法をもって、その需要を充たすことが出来ようか、思うてここに至れば実に慄然たらざるを得ないのであります。

 わが国為政の局にあたる人々は、国家の前途を焦慮した結果、植民政策なるものを立て、過剰の人口を他に移して、その移住者の生活の安定を得せしめんとしております。

 まず第一に合衆国のほか、メキシコや、南米や、南洋諸島を目的としているようですが、国家万年の長計からすれば、これらの遠隔の諸地方へ農耕移民を送った計りでは済みますまい。わが接境の比隣には国家としての中国やロシアがあり、相互の関係は善にもあれ、悪にもあれ到底はなるべからざるものがあるのであります。

 また、その将来についてはいわゆる識者といわるる人々が不断に頭をなやましているようです。わが国がその永遠存立を安全ならしめ、関係諸国とともに共存共栄の福利を楽しまんとすれば、ぜひともこれに添うべき一大国策を樹立せなくてはなりませぬ。わが国の満蒙政策はすなわちこの目的精神から立てられたものであります。

 蓋し満蒙の地はその位置が中国本部と露領シベリアとの中間にはさまり、朝鮮とは鴨緑の水を隔てて相連っているのみならず、あらゆる産業の資源備わらざるなく、開発の前途は実に春風洋々の感があり、しかも近世の歴史的関係は必然的にわが国がその開発任務を負わねばならぬようになったのであります。

 故にいまわが国が上下一致努力して規定の開発策を徹底せしむるには、わが対支政策全部の基調を満蒙におくことにより、行詰った日支関係の現状を相互的に善導し得るとともに、将来永遠の円満策を樹立することが出来るでしょう。

 またロシアとの交渉の中継点とすることが出来るでしょう。鮮人多数に生活の安定を得せしめて、有力なる補助とすることも出来るでしょう。人口食糧調節の上にも実に偉大なる貢献をなし得らるるでしょう。

 またわが重要物資の供給地たらしむることも出来るでしょう。わが国国防の第一線要地たらしむることも出来るでしょう。

 しかしながら満蒙の経営は議論と実地は大変に径庭がある。如何なる有識者の徹底せる立策といえども、肝腎要のその人を得ざれば到底完成するものではない。渺々として天に連る満蒙の大砂漠、ここには無限の富源が天地開闢の当初より委棄されてある。この蒙古の大平原こそ天が与えたる唯一の賜物でなければならぬ。

 わが国の為政者が満蒙開発策として満鉄を敷設し、鄭家屯や、洮南府や、パインタラの東蒙古の一部に少しばかり手をつけている位いでは、到底この開発策はものにはならないであろう。どうしてもわが国存立のため、東亜安全のため、世界平和のために、わが国が率先して天与の大蒙古を開拓せなくてはならない位置にあることを私は固く信じます。

 そしてその目的を達するには、旧慣に囚われざる新宗教の宣伝をもって第一の手段方法と考えるのであります。

 わが国における既成宗教の現状をみれば、宗教の発展どころか、現状維持に汲々たる有様ではありませぬか。気息奄々として瀕死の境にあるわが国の既成宗教が、如何にしてこの大事業に着手するの余裕がありましょう。

 また一人の英雄的宗教家の輩出せんとする気配もなき、わが国の瀕死的宗教に頼るの愚なることは言をまたないでありましょう。

 故に私は日本人口の増加にともない発生する生活の不安定を憂慮し、朝鮮における同胞の安危を憂い、ついで東亜の動乱の発生せんことを恐るるのあまり、いよいよ神勅を奉じて徒手空拳二三の同志とともに長途の旅に上らんとするのであります。

 私は御承知の通り支那語も蒙古語も皆目知りませぬ。そうして蒙古はわが国の面積に比べてほとんど十六倍の面積があり、その民は慓悍にして支那民衆の古来恐怖する獰猛の民である。加うるに馬賊の横行はなはだしく、旅人を掠め生命を奪い、日支人の奥地に入るものは一人の生還者もないと伝えられている蒙古の地に、大胆と云おうか、無謀と云おうか、ほとんど夢にひとしい経綸を胸に描いて出て行く私としては、実に名状すべからざる感慨に打たれるのであります。

 しかしながら私は天地創造の神を信じます。天下万民のために十字架を負いあらゆる艱難を嘗め、生死の境に出入することを寧ろ本懐とするものであります。いまの時において満蒙開発の実行に着手せなくては、わが国も前途はなはだ心細いことになるであろうと憂慮に堪えないのであります。

 われわれは神の国に生まれ、神の国の粟を喰み、神に選まれたる民として、今日の世界の現状を坐視するにしのびないのであります。どうか今この席にお集まりになった神縁ふかき諸氏は、今回の私の遠征の首途に対し御了解あらんことを希望いたします。云々」

 聖師は西北自治軍を組織し、盧を総司令として護衛兼案内役にあたらしめ、四方よりあつまった軍隊を十団に分け、聖師以下日本人の一行は宗教家として一さい武器をおびず、日月地星の神旗をひるがえしつつ、蒼茫として天につづく蒙古の大広野を進まれました。聖師は道すがらかたく徴発掠奪をいましめ、或いは神の教を伝え、あるいは病気をなおし、貧窮者には米塩を与えて、進んで行かれましたので、蒙古人から救世主の再来とあおがれました。

 ところが張作霖はこれを嫉視し、討伐軍をさしむけてきたので、ついに六月二十一日パインタラにおいて捕えられました。盧占魁以下の幕僚部下は、ことごとく銃殺されてしまいました。聖師の一行も二十一日の夜、鴻賓旅館で寝込みをおそわれて、まさに銃殺されようとしたのですが、危機一髪、死線をこえたのであります。それは折よく旅館にとまっていた日本人某氏が、翌朝庭に杓子が落ちているのを発見しました。その杓子には

 天地(あめつち)の身魂(みたま)を救うこの杓子
   心のままに世人(よびと)すくわむ

とあり、裏には

 この杓子我生まれたる十二夜の
   月の姿にさも似たるかな   王仁

と記し、拇印がおしてありました。

 これは聖師の随行の一人がもっていた杓子(御手代(みてしろ)という)で、聖師がかつて九州の杖立温泉に旅行の際、その地の名産である竹の杓子に歌をしるし、拇印をおして熱心な信者にわたし、大本では病者の祈願治癒に用いられていたものであります。某氏は聖師一行の遭難を知っておどろき、パインタラから一番汽車に乗って、鄭家屯の日本領事館にとどけ出ました。領事館では土屋書記生を急行せしめることになり、危く銃殺をまぬがれたのであります。聖師はこのとき死を覚悟されて、つぎのような辞世の歌を詠まれました。

 よしや身は蒙古のあら野に朽つるとも
   日本男子の品はおとさじ

 いざさらば天津御国にかけ上り
  日の本のみか世界守らむ

 日本領事館から聖師一行の引渡しを要求したが、国際法によれば二十四時間以内に引渡すべきであるのに、二十一日の夜から三十日まで十日間パインタラにつないでおいたのは、よほど交渉がむずかしかったためでありましょう。七月五日の夕、鄭家屯の日本領事館に引渡され、一応の取調べをうけ官憲に護送されて七月二十五日内地に帰られました。

 聖師一行の帰国の記事は新聞に大きく掲載されたので、満州の駅々には多数の中国人が旗を立てて送迎し、夜になってからは、高張提灯や手提行燈など無数に点じて人々は送迎していましたが、当時飛ぶ鳥をおとす勢のあった関東軍司令官の巡閲にもみられない盛大な送迎でありました。内地においても駅々は黒山の人で、あたかも、がい旋将軍を迎えるような有様でありました。途中大竹、上郡などの警察署に一泊して大阪に着かれましたが、責付出獄は取消しになって大阪若松支所に収容されました。

 しかし、十一月朔日九十八日ぶりで保釈となり、綾部に帰られました。

 聖師の入蒙は当時の紛糾せる国際的基局の上に、高所大所より下した妙手の一石であったことは、その後、昭和六年秋、満州事変の勃発によって明かになったのであります。