31 明光社の設立

 聖師は昭和三年三月、芸術と宗教の一致を目ざして亀岡に明光社を設立し、雑誌「明光」を発行されました。

 聖師は芸術の道を指導されるのにも、初めから高級なものでなく、冠句を大衆文芸として奨励され、雑誌「月光」を発行し、それから「月明」と改題して短歌を奨励され、それが「明光」と改題されることになったのであります。冠句、沓句は、老人にも子供にも、男にも女にも、だれにでも作れるもので、いくらでも発展進歩の余地があるからであり、和歌はすべての人が詠むべきものであると、特に力を入れられたものであります。

 聖師は十万歌集を出版しようとされたくらい、多くの歌をつくっておられますが、昭和六年五月から二カ年の間に出版された歌集だけでも「花明山」「彗星」「故山の夢」「霞の奥」「東の光」「霧の海」「白童子」「青嵐」「公孫樹」「浪の音」「山と海」があります。昭和五年の秋、聖師が歌壇に進出するや、異常なセンセーションをよび起したことは、世人の知るところであります。聖師の歌集をひもとく時、聖師の事跡性行はもちろんのこと、その教を知ることができると同時に、無数の人事的好題目をとらえて詠んでおられるので、世界維新の真相は彷彿として現れてくるのであります。綾部、亀岡をはじめ全国各地に聖師の歌碑が建てられました。

 聖師は作歌のほかに、書画に、陶芸に、建築に全霊をうちこんで精進されました。昭和五年三月より五月まで京都にひらかれた宗教博覧会に参加し、大本特設館を建てて聖師の作品、――書画、楽焼等を展示しましたところ、大衆の驚異の的となり、人々は聖師の作品を通じて大本を見直したのであります。

 亀岡天恩郷の石造りの月宮殿や神苑の造園には、専門家が驚きの目を見はりました。

 聖師が「明光」誌に応募した歌や句の選をされ、色紙短冊に染筆し、拇印をおして月々賞品として出されるだけでも、実におびただしい数に上りました。

 生田蝶介氏が「古今東西、宗教は多く峻厳、松の木ばかりであるが、氏の宗教は松の木ばかりの泰山でなく、花咲きにおう人間味豊かな「やまとごころ」の泰山なのである。歌はやまとごころの大道である」と批評しているように、聖師の生活は芸術と宗教の一体を具現されていたのであります。

 また聖師が霊界物語を神劇として上演され、自ら舞台に立たれたり、霊界物語、自叙伝その他の映画化に先鞭をつけられたことも、見落してはならない芸術的活動の一面でありましょう。