34 愛善苑の新発足

 聖師は昭和十七年八月、保釈出所後中矢田農園に起臥して静養されました。戦争はいよいよたけなわになって、B29は自由自在に日本の上空を荒れまわりました。聖師は、よく「今度の戦争はあかんで、何としても負けや」と、こんなことをよく側近の人々に語られることもありました。これが警察や憲兵隊の耳にでも入ったなら、保釈が取消されるだけでない、問題になると思って、はたの人々ははらはらさせられました。

 昭和十九年の暮から楽焼の製作を始められました。家族や周囲の人々が、御健康にさわってはと案じて止めるのもきかれず、聖師は全霊をこめて楽焼の製作にいそしまれました。その数三千以上、後年茶道美術評論家加藤義一郎氏によって世に紹介され、驚異の的となった耀琓(ようわん)も、この間に製作されたものでありました。

 しかし、何といってもお好きなのは和歌で、保釈になってから先ず始められたのが和歌でありました。その頃は視力が余程衰えられたために、短冊や色紙に染筆されることも困難でありました。その短冊帳、色紙帳だけでも百幾冊出来ていたのでありましょう。そしてひそかに次々と訪ねてくる信者に面接されました。

 ついに戦争は敗戦となりました。社会の情勢は一変し、言論、出版、信教、結社の自由が叫ばれ、いろいろな団体は続々再建しました。

 第二次大本事件によって、大本をはじめ、一さいの外かく団体は解散を命ぜられていたので、聖師は大本は「愛善苑」という新しい名によって新発足するように提唱されました。

 昭和二十年十二月八日、綾部において大本事件解決奉告祭が執り行われました。新聞紙上で知った全国各地の約八百の信者が綾部に参集しました。祭典は綾部町から寄附した武徳殿を彰徳殿と改名してそこで執行されました。

 この日の祭典は極めて簡素で、聖師御夫妻が神籬の前にならんで先達をされ、一同が天津祝詞を斉唱し、玉串奉奠の後、本宮山にむかって拍手礼拝がありました。

 大本事件中の物故者慰霊祭は出口夫人の先達で天津祝詞の斉唱があり、夫人は事件解消の顛末を霊前に細々と告げられました。

 祭典が終って、聖師、夫人の御挨拶にうつりました。

 昭和二十年十二月八日――大本事件の起った日から満十年ぶりで、聖師は綾部、亀岡両町の当局者および信者の前に起たれたのであります。聖師の鬢髪は目だって白く、お顔には長年月の獄中生活の御苦労がありありと現われていました。満場水を打ったような中に、聖師は黙ってただお辞儀をされました。

 次いで夫人は簡単に挨拶をされ、つづいて出口伊佐男氏は、大本事件の経過を述べ、われわれは当時の弾圧に対して当局を恨む気持は毛頭なく、天の試練として、どうしても経なければならなかった道であると宗教的な反省を示され、形をつくることよりも先ず魂をつくり上げ、心の準備、心の用意の必要なゆえんを力説されました。そして近く亀岡を根拠として、愛善苑という世界平和を目標とする人類愛善運動を起されることを宣言されました。愛善苑は、大正十四年六月に設立せられた人類愛善運動の趣旨をそのまま実地におこなってゆこうとするものであることが宣言されました。

 聖師は綾部の祭典をおえ十日出発、鳥取市外吉岡温泉に滞在、越年して一月八日綾部に帰られましたが、この吉岡温泉に滞在静養中、聖師は来訪した新聞記者に大本弾圧の真相と新日本建設の感想を次のように述べておられます。

 「自分は日華事変から第二次世界戦の終るまで囚われの身となり、綾部、亀岡の本部をはじめ、全国四千余にのぼった教会を全部叩き壊されてしまった。
 しかし信者は教義を信じ続けて来たので、すでに大本は再建せずして再建されているのだ、
 治安維持法違反は無罪となったが、不敬罪は実につまらぬことで、『日の光り昔も今も変らねど東の空にかかる黒雲』という浜口内閣時代[※昭和4~6年]の暴政をいったものを持ち出し、これはお前が主権者になるつもりで、信者を煽動した不敬の歌だといい出し、黒雲は浜口内閣のことだといったが、どうしても通らなかった。
 自分はただ「全宇宙の統一和平」を願うばかりだ。日本の今日あることは、すでに幾回も予言したが、そのため弾圧を受けた。火の雨が降るぞよ、の警告も実際となって、日本は敗けた。

 これからは神道の考え方が変って来るだろう。
 国教としての神道がやかましくいわれているが、これは今までの解釈が間違っていたもので、民主主義でも神に変りがあるわけはない。
 ただ本当の存在を忘れ、自分の都合のよい神社を偶像化して、これを国民に無理に崇拝させたことが日本をあやまらせた。
 殊に日本の官国弊社の祭神が神様でなく、ただの人間を祭っていることが間違いの根本だ。
 しかし、大和民族は絶対に亡びるものではない。
 いま軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命が含まれている。
 本当の世界平和は、全世界の軍備が撤廃されたとき、はじめて実現され、いまその時代が近づきつつある。」

 かくして昭和二十一年二月七日をもって愛善苑は「愛善苑設立趣意書」を発表して新発足しました。聖師は苑主として起たれたという報が伝えられると、長い冬が過ぎて若草のもえ出るように運動はたちまち全国にひろがり、続々と人々は綾部、亀岡に集まって来ました。