出口王仁三郎の生涯

このブログは、出口王仁三郎と霊界物語の総合サイト『王仁三郎ドット・ジェイピー』(略称オニド)で配布している『聖師伝~出口王仁三郎の生涯』を転載したものです。 飯塚弘明・責任編集 http://onido.onisavulo.jp/

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【附録】出口聖師年譜
(年齢は数え年)

●明治4年(1871年)
 旧7月12日京都府南桑田郡曽我部村字穴太小字宮垣内の
    農家・上田吉松の長男として生まれる。幼名・喜三郎。
●明治13年(1880年)10歳
 偕行小学校に入学。
●明治16年(1883年)13歳
 小学校の代用教員として教鞭をとる。
●明治18年(1885年)15歳
 奉公を励む。
●明治26年(1893年)23歳
 船井郡園部の獣医・井上氏の書生となる。
●明治27年(1894年)24歳
 岡田惟平翁に就き始めて敷島の道を学ぶ。
●明治29年(1896年)26歳
 郷里穴太に牛乳搾取場精乳館を設置。
●明治30年(1897年)27歳
 父・吉松、帰幽、享年54歳。
●明治31年(1898年)28歳
 旧2月9日より一週間、郷里高熊山にて修行をなす。
 旧8月23日、参綾。初めて大本開祖と会見。翌々日、綾部を去る。
●明治32年(1899年)29歳
 7月3日、開祖の迎えによりて再び参綾。
●明治33年(1900年)30歳
 1月1日、出口澄子と結婚。
 4月2日、金明霊学会を設置。
●明治35年(1902年)32歳
 3月7日、長女直日、誕生。
●明治36年(1903年)33歳
 この秋「筆の雫」「霊の礎」等の執筆を始める。
●明治37年(1904年)34歳
 12月「道の栞」脱稿。
●明治39年(1906年)36歳
 9月、京都の皇典講究所に入学。雑誌「このみち」を創刊。
●明治40年(1907年)37歳
 4月、皇典講究所卒業。
 5月、別格官幣社・建勲神社の主典となり12月辞任。
●明治41年(1908年)38歳
 8月1日、金明霊学会を大日本修斎会と改称。
●明治42年(1909年)39歳
 3月、雑誌「直霊軍」創刊。
●大正3年(1914年)44歳
 8月、「敷嶋新報」創刊。
 9月25日、直霊軍を組織。
●大正5年(1916年)46歳
 3月9日、直霊軍の別働隊なる白虎隊、少年隊を組織。
 4月、大和畝傍山に参拝。
 6月25日、播州高砂沖の神島を開く。
●大正6年(1917年)47歳
 1月、大本機関誌「神霊界」創刊。
 12月、機関紙「綾部新聞」創刊。
●大正7年(1918年)48歳
 4月、大和三山を巡る。
 11月6日(旧10月3日)開祖出口直子刀自昇天。享年83歳。
●大正8年(1919年)49歳
 9月、「綾部新聞」を廃刊し新たに「大本時報」を発刊。
●大正9年(1920年)50歳
 5月、大和龍門嶽に登山。
 9月、大正日日新聞社を経営。
●大正10年(1921年)51歳
 2月12日、大本事件起きる。
 同日、京都監獄未決監に収容され、
 6月17日、責付出獄を許される。この間の獄中生活126日に及ぶ。
 8月、「神霊界」を「神の国」と改題。
 10月5日、京都地方裁判所に於て大本事件の公判判決言い渡しあり。
    不敬罪として懲役5年を言い渡される。直ちに控訴。
 同月、本宮山神殿取毀命令下り、官憲の手により破壊される。
 同月18日(旧9月18日)より松雲閣に於て「霊界物語」の口述開始。
●大正11年(1922年)52歳
 2月4日、大日本修斎会を大本瑞祥会と改称。
●大正12年(1923年)53歳
 7月、国際語エスペラントを採用。
 10月、続いて日本式ローマ字を採用。
 この年、支那道院との提携成る。
●大正13年(1924年)54歳
 2月13日、払暁ひそかに綾部を立ちて数名の同志と共に入蒙の途に就く。
 3月3日、奉天を出発。洮南を経て公爺府(コンエフ)に入る。
 6月21日、白音太拉(パインタラ)に於て捕らえられる。
 7月、官憲に護送されて帰国。
 同27日、責付取消により再び大阪刑務所北区支所に収容される。
 11月1日、保釈許可となり帰綾。
 12月15日、再び「霊界物語」の口述を始める。
●大正14年(1925年)55歳
 1月20日、大本及び大本瑞祥会の規約組織の大改革を行う。
 5月11日、最高点にて綾部町町議に当選。
 同月20日、世界宗教連合会を創立し、北京に於て発会式を挙げる。
 6月9日、人類愛善会を設立。
 7月15日、大審院に於て大本事件は事実審理と決定。
    従来の判決は破棄される。
 10月、「人類愛善新聞」発刊。このほか「瑞祥新聞」「真如の光」
    エス文「大本」(後に国際大本と改題)文芸誌「明光」等
    続々発刊の運びに至る。
●大正15年・昭和元年(1926年)56歳
 2月頃より楽焼の製作を始める。
 5月より歌日記執筆。
 この間、亀岡に於ては神苑の造営大いに進捗。
●昭和2年(1927年)57歳
 5月17日、大赦令により7ヵ年にわたる大本事件解消。
 12月、渡台。
●昭和3年(1928年)58歳
 2月1日、長女直日、高見元男(日出麿)と結婚式を挙げる。
 5月、四国地方巡教。
 7月、東北地方巡教。
 この間、亀岡にては月宮殿をはじめ諸種の建築物の竣成。
●昭和4年(1929年)59歳
 3月、四国巡教。
 4月、伊勢神宮及び香良洲神社参拝。
 同月、甲斐、信濃地方巡教。
 10月、渡支、一ヶ月余。
 11月、「北国夕刊新聞」大本の経営となる。
 この年より全国各地に於て聖師作品展を開催。
●昭和5年(1930年)60歳
 3月、京都にて開催の宗教博覧会に参加し大本館を特設して出品。
 6月4日、開島30周年に際し沓島、冠島参拝。
 9月、山陰及び壱岐対馬巡教。
 同月、人類愛善新聞社及び人類愛善会東洋本部を亀岡より東京に移転。
 12月、再び台湾巡教。
●昭和6年(1931年)61歳
 8月、満60歳の還暦を迎え更生祭を行う。
 歌壇に進出し、80有余の結社に加入。
 数ヶ月に歌集数冊を発刊。
 9月8日、綾部鶴山山上に神声碑建立。
 同月下旬、山形、更に北海道に巡教。
 10月18日、昭和青年会を結成し、雑誌「昭和青年」
    (後に昭和と改題)を発刊。
 12月、四国地方巡教。
 同月、人類愛善会、支那の聖道理善会(在理会)と提携。
 愛善主義による各種精神運動団体との提携の歩は着々として進み、
    既に提携せる主なものは支那の道院、救世新教悟善社、
    ドイツの白色旗団、ブルガリヤの白色連盟等々あり。
●昭和7年(1932年)62歳
 2月、開教40周年祭を挙行。
 同月、「丹州時報」大本の経営となる。
 同月、大阪にて開催の満蒙博覧会に参加して愛善館を特設。
 4月、京都満蒙支那大博覧会にも参加し愛善館を特設。
 6月18日、人類愛善会と喇嘛教との提携成る。
 7月、東京満州国大博覧会に参加出品。
 8月13日、大日本武道宣揚会創立。
 11月1日、昭和坤生会を結成。
 同月、北海道地方巡教。
●昭和8年(1933年)63歳
 旧1月1日付を以て大本を皇道大本と復帰し、
    これまでの大本瑞祥会を解消。
 3月、紀州官幣大社熊野神宮に参拝。
 同月、伊勢神宮ならびに香良洲神社に参拝。
 同月20日、生母・世根子刀自帰幽。
 10月4日、亀岡天恩郷にて霊界物語「天祥地瑞」の口述を開始。
●昭和9年(1934年)64歳
 7月22日、昭和神聖会創立。全国遊説。
●昭和10年(1935年)65歳
 12月8日、第二次大本事件起こる。聖師松江より拘引、
    京都市中立売警察署に収容される。
●昭和11年(1936年)66歳
 3月13日、起訴される。
●昭和15年(1940年)70歳
 2月29日、京都地方裁判所において判決、治安維持法違反及び
    不敬罪として無期懲役を言い渡される。直ちに控訴。
●昭和17年(1942年)72歳
 7月31日、控訴審の判決あり、治安維持法違反は無罪
    不敬罪は原審通り有罪の言い渡し。
 8月7日、夫人澄子、出口伊佐男と共に保釈出獄、
    6年8ヶ月ぶりにて亀岡へ帰る。
●昭和20年(1945年)75歳
 9月8日、大審院の判決下る。治安維持法違反は無罪と確定し、
    相次いで不敬罪も解消。
 10月、第二次事件によって綾部、亀岡の両聖地は当局の手により
    綾部、亀岡両町に売り渡され、法廷で争い続けていたが、
    町との円満な解決によって無条件にて返還される。
 12月8日、事件解決奉告祭を綾部彰徳殿にて執行。
●昭和21年(1946年)76歳
 2月7日、聖師の提唱により「愛善苑」新発足。
 8月7日、突如発病、血圧昂進のため絶対安静。
 12月5日、中矢田農園より、落成した瑞祥館に移り静養。
 12月8日、愛善苑会則改正により聖師は苑主となる。
    愛善苑趣意書を改正し愛善苑主意書発表。
●昭和22年(1947年)77歳
 1月22日、宗教法人令による法人組織の手続き完了。
 8月27日(旧7月12日)喜寿を祝う瑞生祭を亀岡にて執行。
 12月8日、新生記念祭執行。病勢やや悪化。本部事務所竣成。
●昭和23年(1948年)78歳
 1月18日(旧12月8日)容体急変。
 1月19日、午前7時55分昇天。
 1月30日、綾部へ遷柩。
 2月2日、葬儀を愛善苑苑葬として執行。天王平に埋葬される。

35 晩年の聖師

 愛善苑が発足すると間もなく、三月三日には綾部鶴山の築山工事の着工、さらに三月二十一日には天恩郷の建設工事が開始されました。

 四月三日、聖師御夫妻は沓島冠島遥拝のため舞鶴市大丹生へおもむかれました。聖師御夫妻は葦谷の山麓から駕籠に乗られ、数十人の信者が後につづいて山に登りました。山頂から見れば、はるか霞の中に墨絵のように冠島、沓島の両島が海上にうかんでいます。聖師御夫妻は、かつて明治の時代に開祖とともに小さな舟で両島に参拝されたことを思い出され、まことに感慨無量の体に見られました。この遥拝の場所を国見山遥拝所、登山道を国見坂と命名されました。同夜と翌四日滞在、五月朝大丹生を出発、正午綾部に帰られました。

 四月下旬には雑誌「愛善苑」の創刊号が発行されました。

 聖師は昭和十年の事件によって無残に打ちこわされた月宮殿跡や神苑を幾度か巡ってごらんになりました。そこには天恩郷名物のお多福桜が咲いており、あちこちに石垣が残っていました。天気の好い日は、更生車にゆられて朝早くから農園を出て天恩郷に行き、工事を監督指揮されました。お孫さんの曙ちゃん(梅野さんのお子さん)を抱いた聖師のお姿が、ウインチをまきつつ働く信者の中に見られることもありました。

 聖師御夫妻は五月八日の朝、綾部を立って十一年ぶりに松江市赤山の松楽苑(旧別院跡)へ赴かれました。ここは、昭和十年十二月八日の暁、突如弾圧の嵐が聖師の身辺をおそったゆかりの地であります。

 着かれた日は各新聞記者と面接して、新築の館に休まれました。翌日赤山に登って見られました。


 別院は見るかげもなく壊たれて
      後に残るは諸木のみなる

 三本の歌碑は残らず砕かれて
      神苑内に横たはりおり


 これは聖師の歌日記からのお歌であります。

 すみ子夫人は感慨を次のように歌われています。


 かえりみれば十一年の夢ぞかし
      花咲く春にあいにけるかな

 かえりみれば昔が夢かいま夢か
      夢の中なる夢の世の中

 かえりみれば四十六年の昔なり
      母の旅路の姿目に見ゆ


 九日から十五日までは信者に面接され、また色紙や短冊に染筆されたり、また信者の催しの演芸会に旅情を慰めたりされました。十六日、聖師御夫妻は地恩郷を訪れ、翌日は絵絹や額または衝立に雄渾な筆をふるわれました。

 十八日一行は出雲大社に参拝し、二十三日鉢伏山に登り、二十六日綾部に帰られました。

 六月四日(旧五月五日)午前十時より綾部鶴山において築山富士の鎮祭が執行されました。

 田植がはじまると、聖師は田植初めをされました。またある時は、園部の旧知の宅を訪れ、南陽寺に旧友と語り、ある時は旧知の霊をとむらったりされました。

 六月二十七日、西本願寺法主大谷光照氏が中外日報社主真渓涙骨氏に案内されて中矢田農園に来訪され、同志社総長牧野虎次氏も加わって、聖師と親しく語り合われました。

 さらに聖師御夫妻は、紀州の信者たちの懇望にこたえて、七月十六日早朝、亀岡を出発し、大阪より船で紀州路の旅につかれました。十七日新宮市三輪崎につき、数十名の信者に迎えられて聖師御夫妻はカゴにて山路を登り、三高農園の山荘に入られました。ここは中谷の別荘として知られ、太平洋を俯瞰する眺望雄大、景色絶佳の地であります。聖師は山荘を梅松館、三高農園一帯を快山峡と命名されました。聖師は夫人と出口伊佐男氏と三人でゆっくり語り合われました。また信者の面接、色紙の染筆、屏風の揮毫などに時を過され、また紀州地方の物故者の慰霊祭に参列されたりして、二十六日午後九時亀岡に帰られました。

 八月九日午前九時より綾部本宮山々上において聖師の第七十六回生誕の礼拝が行われました。

 常に活動して止まれなかった聖師は、晩年になっても、天気が好ければ農園から天恩郷に出むかれて、弱くなっておられた足を引きずるようにして現場の工事監督をされるのでした。それも炎天の七八月の頃で、よほどお身体におこたえになられたのか、八月十四日工事監督中腹痛を起され、工事半ばの瑞祥館に一夜を過されましたが、平癒されましたので、十七日の夕、中矢田農園にお帰りになりました。然るに、八月二十五日月の輪台を完成され翌二十六日にいたって突如脳出血のため重態におちいられました。

 しかし、その後幾分快方に向われ、十二月五日に瑞祥館が落成したので、中矢田農園から移り、絶対安静、面会謝絶で静養されていました。

 十二月八日、愛善苑会則が改正され、天恩郷の道場が落成し、本部を併置することになりました。

 聖師は病床にあっても、愛善苑の順調な発展ぶりには満足せられ、殊に宗教界、思想界の動向には常に多大の関心をよせておられました。昭和二十一年の秋、京都において国際宗教懇談会が開かれ、愛善苑委員長出口伊佐男氏が出席された時などは、かつて御自分が提唱された世界宗教連盟実現の第一歩であるといって大へん喜ばれました。また昭和二十二年一月二十日、愛善苑が宗教法人令による法人組織の手続が完了した時も聖師は喜ばれました。また八月二十七日は聖師の喜寿を祝う瑞生祭が盛大に亀岡で執り行われ、十二月八日の新生記念祭には本部事務所竣工式が行われました。聖師はこの新生記念祭の当日、非常に喜ばれて、御安心になったためか、御病状がやや悪化しました。

28 蒙古入り

 聖師は大正十年の大本事件によって、世間から一時全く誤解されてしまいました。

 しかし聖師の如き神人の光が、いつまでも雲におおわれているはずはありません。聖師が、真に世界の平和と幸福のために活動している人であるということが、心ある人々によってやや明かに知られるようになったのは、聖師があの満蒙の天地に、大活躍を試みられた時からのことであります。

 聖師はかねてより同志とともにひそかに入蒙の計画を立て、あらかじめ奉天の張作霖の了解を得、大正十三年二月十三日の夜明け方、随員数名をひきいて入蒙の雄図につかれました。当時聖師はまだ責付中の身でありましたから、大本の幹部たちにさえ、一さい秘密にして綾部を出発されました。聖師は奉天に行って張作霖の部下の一人なる蒙古の英雄盧占魁とはじめて遭って話ができ、肝胆相照らして、ともに手をたずさえて遠征の途に上られることになりました。

 聖師は遠征の途に上るに際して、綾部に集まった信者に対し次のように述べておられますが、そこには聖師入蒙の目的抱負が明かにうかがわれます。

 「神縁によって私がここに神の経綸の一端に奉仕し、今晩を期していよいよ渡支渡蒙を決行せんとするに当り、招かずしてお集まりになった諸氏は、かならずや神界の深き経綸の糸に引かれて、お出になった方々と固く信じます。

 わが大本は既成宗教の如く、現界を厭離穢土となし、未来の天国や極楽浄土を希求するのみの宗教ではありませぬ。国祖の神の仁慈無限なる神勅により、日本の民と生まれたるわれわれは、この尊き大神様の御神示を拝し、わが同胞の平和と幸福のためのみならず、東亜諸国ならびに世界の平和と幸福を来たすべき神業に奉仕せなくてはならない責任を持っているのであります。

 御神示にある通り「大正十年の節分がすみたら、変性女子の身魂を神が人の行かない処に連れゆくぞよ」とお示しになっていることは、神さま御承知のことと思います。その神示は毫末の間違いもなく、二月十二日、私は御承知の京都監獄に投ぜられたのでありました。そしてまた本回も節分祭のすんだ十二日に、人のよう行かない所へ行かねばならぬ、神の使命が下って来たように考えられてなりませぬ。

 私は肇国(ちょうこく)の大精神を天下にあきらかにし、かつ日本の肇国の精神は征伐にあらず、侵略にあらず善言美詞の言霊をもって、万国の民を神の大道に言向和するにあることを固く信じます。凡て世界の人民を治むるは武力や智力ではとうていダメです。結局は精神的結合の要素たる、すべての旧慣に囚われざる新宗教の力によるより外はないと信じます。

 つらつら現今のわが国情を考えてみまするに、わが国の人口は、年々七十万づつの増加をもって進みつつあると統計学者はいっております。この割合で進んで行けば、大正三十一年には七千七百万の同胞となり、同じく五十一年には一億余万人に達するという計算になります。兎に各わが国人口の増加は年々の事実の証明するところであって、これに要する食糧品たる米麦が、現に年々七八十万石の不足を告げつつあることもまた事実である以上、この人口と食糧との不均衡は、わが国存立の上において一問題たらねばなりませぬ。

 国内現在の未懇地を開拓し、耕地の整理を徹底的に断行すれば、約二百万町歩の水田火田が得られ、二千万石の米麦の増収が出来るとの説もありますが、しかしながらこの開墾や整理は、いつになったら完成されるでしょうか。たとえわが官民が熱誠努力の結果、幾十年かの後にそれが完成されるものとしても、その時には人口はすでに一億以上になっている筈であります。

 この人口と食糧との均衡が依然として保たれるでしょうか。国家の前途を案ずれば、百千年の長計を目途とせねばならぬ。一時の糊塗策は、決して国家永遠の存立を保証することは出来得ないでしょう。しかしながら、わが国の植民政策は、かかる基調から発足しているようであります。

 殊にわが国家将来の存立および発展に就ては、単に米麦が満足に得らるるのみではすまされませぬ。日進月歩の世界の前途には、銅鉄や綿類や毛布皮革等を主として幾多の物資が無限に需要さるることは、今日においても明かなる題目であるのに、わが国においては、これを将来に充実せしむべき安全なる政策が立っておりますか、実に思うてみれば心細い次第であります。

 一朝有事のときに海外からその供給を断たれたならば、わが国は如何なる方法をもって、その需要を充たすことが出来ようか、思うてここに至れば実に慄然たらざるを得ないのであります。

 わが国為政の局にあたる人々は、国家の前途を焦慮した結果、植民政策なるものを立て、過剰の人口を他に移して、その移住者の生活の安定を得せしめんとしております。

 まず第一に合衆国のほか、メキシコや、南米や、南洋諸島を目的としているようですが、国家万年の長計からすれば、これらの遠隔の諸地方へ農耕移民を送った計りでは済みますまい。わが接境の比隣には国家としての中国やロシアがあり、相互の関係は善にもあれ、悪にもあれ到底はなるべからざるものがあるのであります。

 また、その将来についてはいわゆる識者といわるる人々が不断に頭をなやましているようです。わが国がその永遠存立を安全ならしめ、関係諸国とともに共存共栄の福利を楽しまんとすれば、ぜひともこれに添うべき一大国策を樹立せなくてはなりませぬ。わが国の満蒙政策はすなわちこの目的精神から立てられたものであります。

 蓋し満蒙の地はその位置が中国本部と露領シベリアとの中間にはさまり、朝鮮とは鴨緑の水を隔てて相連っているのみならず、あらゆる産業の資源備わらざるなく、開発の前途は実に春風洋々の感があり、しかも近世の歴史的関係は必然的にわが国がその開発任務を負わねばならぬようになったのであります。

 故にいまわが国が上下一致努力して規定の開発策を徹底せしむるには、わが対支政策全部の基調を満蒙におくことにより、行詰った日支関係の現状を相互的に善導し得るとともに、将来永遠の円満策を樹立することが出来るでしょう。

 またロシアとの交渉の中継点とすることが出来るでしょう。鮮人多数に生活の安定を得せしめて、有力なる補助とすることも出来るでしょう。人口食糧調節の上にも実に偉大なる貢献をなし得らるるでしょう。

 またわが重要物資の供給地たらしむることも出来るでしょう。わが国国防の第一線要地たらしむることも出来るでしょう。

 しかしながら満蒙の経営は議論と実地は大変に径庭がある。如何なる有識者の徹底せる立策といえども、肝腎要のその人を得ざれば到底完成するものではない。渺々として天に連る満蒙の大砂漠、ここには無限の富源が天地開闢の当初より委棄されてある。この蒙古の大平原こそ天が与えたる唯一の賜物でなければならぬ。

 わが国の為政者が満蒙開発策として満鉄を敷設し、鄭家屯や、洮南府や、パインタラの東蒙古の一部に少しばかり手をつけている位いでは、到底この開発策はものにはならないであろう。どうしてもわが国存立のため、東亜安全のため、世界平和のために、わが国が率先して天与の大蒙古を開拓せなくてはならない位置にあることを私は固く信じます。

 そしてその目的を達するには、旧慣に囚われざる新宗教の宣伝をもって第一の手段方法と考えるのであります。

 わが国における既成宗教の現状をみれば、宗教の発展どころか、現状維持に汲々たる有様ではありませぬか。気息奄々として瀕死の境にあるわが国の既成宗教が、如何にしてこの大事業に着手するの余裕がありましょう。

 また一人の英雄的宗教家の輩出せんとする気配もなき、わが国の瀕死的宗教に頼るの愚なることは言をまたないでありましょう。

 故に私は日本人口の増加にともない発生する生活の不安定を憂慮し、朝鮮における同胞の安危を憂い、ついで東亜の動乱の発生せんことを恐るるのあまり、いよいよ神勅を奉じて徒手空拳二三の同志とともに長途の旅に上らんとするのであります。

 私は御承知の通り支那語も蒙古語も皆目知りませぬ。そうして蒙古はわが国の面積に比べてほとんど十六倍の面積があり、その民は慓悍にして支那民衆の古来恐怖する獰猛の民である。加うるに馬賊の横行はなはだしく、旅人を掠め生命を奪い、日支人の奥地に入るものは一人の生還者もないと伝えられている蒙古の地に、大胆と云おうか、無謀と云おうか、ほとんど夢にひとしい経綸を胸に描いて出て行く私としては、実に名状すべからざる感慨に打たれるのであります。

 しかしながら私は天地創造の神を信じます。天下万民のために十字架を負いあらゆる艱難を嘗め、生死の境に出入することを寧ろ本懐とするものであります。いまの時において満蒙開発の実行に着手せなくては、わが国も前途はなはだ心細いことになるであろうと憂慮に堪えないのであります。

 われわれは神の国に生まれ、神の国の粟を喰み、神に選まれたる民として、今日の世界の現状を坐視するにしのびないのであります。どうか今この席にお集まりになった神縁ふかき諸氏は、今回の私の遠征の首途に対し御了解あらんことを希望いたします。云々」

 聖師は西北自治軍を組織し、盧を総司令として護衛兼案内役にあたらしめ、四方よりあつまった軍隊を十団に分け、聖師以下日本人の一行は宗教家として一さい武器をおびず、日月地星の神旗をひるがえしつつ、蒼茫として天につづく蒙古の大広野を進まれました。聖師は道すがらかたく徴発掠奪をいましめ、或いは神の教を伝え、あるいは病気をなおし、貧窮者には米塩を与えて、進んで行かれましたので、蒙古人から救世主の再来とあおがれました。

 ところが張作霖はこれを嫉視し、討伐軍をさしむけてきたので、ついに六月二十一日パインタラにおいて捕えられました。盧占魁以下の幕僚部下は、ことごとく銃殺されてしまいました。聖師の一行も二十一日の夜、鴻賓旅館で寝込みをおそわれて、まさに銃殺されようとしたのですが、危機一髪、死線をこえたのであります。それは折よく旅館にとまっていた日本人某氏が、翌朝庭に杓子が落ちているのを発見しました。その杓子には

 天地(あめつち)の身魂(みたま)を救うこの杓子
   心のままに世人(よびと)すくわむ

とあり、裏には

 この杓子我生まれたる十二夜の
   月の姿にさも似たるかな   王仁

と記し、拇印がおしてありました。

 これは聖師の随行の一人がもっていた杓子(御手代(みてしろ)という)で、聖師がかつて九州の杖立温泉に旅行の際、その地の名産である竹の杓子に歌をしるし、拇印をおして熱心な信者にわたし、大本では病者の祈願治癒に用いられていたものであります。某氏は聖師一行の遭難を知っておどろき、パインタラから一番汽車に乗って、鄭家屯の日本領事館にとどけ出ました。領事館では土屋書記生を急行せしめることになり、危く銃殺をまぬがれたのであります。聖師はこのとき死を覚悟されて、つぎのような辞世の歌を詠まれました。

 よしや身は蒙古のあら野に朽つるとも
   日本男子の品はおとさじ

 いざさらば天津御国にかけ上り
  日の本のみか世界守らむ

 日本領事館から聖師一行の引渡しを要求したが、国際法によれば二十四時間以内に引渡すべきであるのに、二十一日の夜から三十日まで十日間パインタラにつないでおいたのは、よほど交渉がむずかしかったためでありましょう。七月五日の夕、鄭家屯の日本領事館に引渡され、一応の取調べをうけ官憲に護送されて七月二十五日内地に帰られました。

 聖師一行の帰国の記事は新聞に大きく掲載されたので、満州の駅々には多数の中国人が旗を立てて送迎し、夜になってからは、高張提灯や手提行燈など無数に点じて人々は送迎していましたが、当時飛ぶ鳥をおとす勢のあった関東軍司令官の巡閲にもみられない盛大な送迎でありました。内地においても駅々は黒山の人で、あたかも、がい旋将軍を迎えるような有様でありました。途中大竹、上郡などの警察署に一泊して大阪に着かれましたが、責付出獄は取消しになって大阪若松支所に収容されました。

 しかし、十一月朔日九十八日ぶりで保釈となり、綾部に帰られました。

 聖師の入蒙は当時の紛糾せる国際的基局の上に、高所大所より下した妙手の一石であったことは、その後、昭和六年秋、満州事変の勃発によって明かになったのであります。

26 エスペラントとローマ字の採用

 「いまや自己の運命を自覚している新しい人類の最初の仕事は、万人に共通なる言語を採用することでなければならない」──こうロマン・ローランがいっているように、国際補助語の問題は、解決すべき人類の諸問題の中で、もっとも重大なものの一つであります。

 聖師は大正十年の秋、世界平和の精神的土台となるべき「霊界物語」を発表されるとともに、第一に着手された仕事は、国際補助語エスペラントとローマ字の採用でありました。これは何でもないことのように考えられるかも知れませんが、大本の歴史の上からみて、最も特筆すべきことの一つでありました。何故かと申しますと、第一次大本事件以前の大本の信仰思想は、排外的の国家主義であったからであります。大本神諭には一見外国ぎらいのように解釈される文字が、いたるところに散見されますので、横文字などを読むものを、外国魂扱いにして卑しんでいたものであります。これなども神諭の真精神を曲解したおそるべき傾向の一つでありました。そうしたかたくなな信仰思想は霊界物語の発表とともに漸次修正されてはいましたが、聖師のエスペラントおよびローマ字の採用は、当時の大本に革新的な空気を注ぎ入れました。

 大正十二年七月、聖師は京都同志社大学の学生重松太喜三氏を招へいして、綾部において一週間講習会を開き、みずから講習をうけ、エスペラントを奨励されたので、エスペラント運動はすばらしい勢をもって燃え上りました。まずエスペラント普及会を設けて雑誌「ヴェルダ・グローロ」(緑の光)を発行されることになりました。のちにこの雑誌は「ヴェルダ・モンド」(緑の世界)と改題され、全国各地に支部をおき活動したのであります。聖師はさらに初学者のために「記憶便法エス和作歌辞典」を著されました。公定語三千六百を選んで、それを和歌に読みこみ、その辞典を十五日間で完成されました。

 エスペラントが採用されると、日本の有名なエスぺランチストがつぎつぎに綾部をおとづれるようになり、また大本からも各地でひらかれるエスペラントの会合に出席して、エスペラント運動はたちまち全国の信者の間にひろがりました。

 一方ジュネーヴ市の万国エスペラント協会の機関紙「エスペラント」誌上に大本運動の簡単な紹介記事が載せられましたところ、各国のエスぺランチストたちからさかんに大本について照会の手紙が参りました。大本ではエスペラント採用後まもないことでありましたが、大本のあらましをパンフレットにまとめ、世界四十八ヵ国のエスぺランチストや団体あてに発送しました。世界にはエスペラントの新聞雑誌がいろいろ発行されていますが、それらの新聞雑誌は一斉に大本を紹介しました。また、それが各国語に翻訳されるというわけで、大本運動はエスペラントを通じて、素直に欧米に紹介されたのであります。

 本部では海外宣伝部をおいて、エスペラントによる"Oomoto"(大本)という月刊雑誌を発行しました。

 聖師はエスペラントを採用されるとともに日本式ローマ字を採用されました。ローマ字論者は国字をローマ字に改めることを主張しているのでありますが、聖師がローマ字を採用されたのは、必ずしもそういう意味ではなかったようであります。国語の復活に役立つということと、日本語を世界にひろめるには、ローマ字画気書きがよいということであったと思います。

 日本の七不思議の一つは、国語を死語としたこともない代りに、国語を復活したこともないことであります。むかしから言霊の幸う国といわれていながら、今日ほど国語が複雑乱脈を極めている時代はないのであります。新聞、雑誌、ラジオ等で不純な国語に接した人は、国語をもっと正しく、美しく、豊かに、統一あるものにしたいと願うでありましょう。

 聖師はここに眼をつけられて、大正十二年十月ローマ字普及会を設立し、各地に支部を設け、機関誌「言葉の光」"Kotoba no Hikari"を発行して、ローマ字運動をひろめられました。

20 聖師の苦闘

 この間における大本の役員たちの聖師に対する反対、排斥、圧迫はとても口や筆で言いつくすことは出来ないのでありまして、今から考えると、そんなバカバカしい、理不尽なことが果してあったのであろうかと疑われるくらいのものであります。

 当時の役員たちは、開祖の筆先の上よりみて、聖師の肉体は神業のために必要なので追い出すことは出来ないが、その肉体にやどっている守護神が、小松林命という四つ足の悪の守護神であるという風にとっていたのですから、聖師に対してさまざまな無礼をしたものであります。聖師に塩をふりかけたり、タンツバをかけたり、しまいには六畳敷の一室に入れて一挙一動を監視するというようなことになって来ました。或る時は四方春三以下十人ばかりの役員が、暗殺隊をつくって待ち伏せていましたが、聖師に機先を制せられて逃げ帰り、開祖から叱られたようなこともありました。

 「開祖は経の教えを説かれる役、聖師は緯の教えを説く役」であると説明しても、役員たちは信ぜず、聖師はほとほと困られたのですが、聖師は役員たちにむかって、

 「君らは開祖様の御馳走される糞尿と、私が御馳走する飯と鯛とどちらをとるか」
と聞いてみると、一人の役員は

 「開祖様の糞尿ならありがたく頂戴する」
というので、これでは到底ダメだと考え、聖師は大阪の内藤七郎氏方へ行かれたことがあります。

 その後、用が出来たので、聖師は洋服を着て綾部へ帰られました。一同は聖師の行方を探していたので、聖師の帰って来られたのを喜びはしたものの、またまた小松林の四つ足の悪の守護神呼ばわりをし出し、洋服を着たり皮のカバンをもつなどということは、外国のヤリ方だというわけで、洋服はひきむいて雪隠へほうり込む、鞄はどこかへ片づけてしまいました。そしてどこへ行くにも張番をしてついてくるので、たまらなくなって出て行こうとするけれども、出してくれず、しいて出て行こうとすれば、「これでも行くか」といって四・五の役員らが出刃包丁をもって切腹しようとするのです。おどかしでなく本気なのだから、手がつけられず、仕方なしに往生して一ヵ年ばかりまた腰をすえることにされました。

 また聖師が苦心して書かれた書物を役員たちは、ことごとく焼きすて、神という字はモッタイないといって、一々神の字だけを切りぬきました。その切り抜いた神の字だけが、蜜柑箱に数はいあったということであります。その中で残ったのが現在の「道の栞」、「道の大本」、「筆のしづく」などであります。

 一室へおしこめラれ手、代る代る張番をして自分の自由にならぬので、古事記を研究しようとすると、そんなコジキの学問なんか、釈迦の真似などすることは要らぬといってとり上げてしまう。それじゃ日本書紀を読もうというと、日本書紀ならよかろうというわけでしたが、その本を見てこれは角文字ぢゃないか、大本は横文字や角文字はいかん、いろは四十八文字で世を開くのだというので、とり上げて焼いてしまうという始末です。仕方がないので、フトンをかぶって豆ランプの火で調べものをしたり、筆を執ったりされました。

 聖師は大本の役員連中が目をさますまで、一時大本を去っている方がよいとお考えになりまして、明治三十九年から四十年まで大本を去られました。聖師は三十六歳の時、明治三十九年旧七月二十二日京都の皇典講究所へ入学され、明治四十年旧二月十八日に卒業されました。

 聖師は建勲神社の主典に補せられ、その後、御嶽教の副管長を務められましたが、聖師が大本を去られてからは、役員信者は一旦チリヂリバラバラになって、大本は火の消えたようになってしまいました。

 しかし、聖師は多年にわたる研鑽の結果、今まで疑われていた筆先の真意の了解がつきましたので、明治四十一年にほかの仕事を全部やめて、綾部にお帰りになられましてから、再び大本は勢よくひろがって行ったのであります。

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